心のなかに眠る人②

もうすぐ崇が迎えに来る。

リサは昨日の夜からそわそわしていた。崇には「たくさん歩く。公園で寝転がる」と言われた。だからジーンズはすぐ決まったが、どんな服を合わせるかで悩んだ。悩むほど服を持っていないが、ジーンズでも女性らしさが感じられる装いにしたい。疲れている崇を優しく包むような雰囲気にしたい。迷った挙句、一番気に入っているコットンのチュニックにした。コットンと言っても手触りが柔らかく、自然素材ならではの優しさがあった。生成りなので汚れることを気にして選択肢に入れていなかったが、汚れたら丁寧に洗えばいいだけのことだ。

 

 ドアベルが鳴った。リサは深呼吸を一つして、立ち上がった。

「お母さん、行ってきます」

聡子に声をかけて、玄関に急ぐ。ドアを開けると、少しやつれた顔の崇が立っていた。モスグリーンのシャツにジーンズ。髪は無造作にかきあげていた。

「おはよう、リー」

玄関でウォーキングシューズを履いていると、後から聡子がやって来た。

「ツォン、今日はよろしくね」

「おはようございます、聡子。今日は遅くならないけど、リーの夕ご飯は用意しなくて大丈夫だから」

「そう、分かったわ」

聡子に送り出されて、リサは崇と肩を並べた。

 

マンションを出ると崇はサングラスをかけた。

「徹夜明けの目には、太陽が眩しすぎて」

「徹夜だったの?徹夜はしないって言っていたのに」

「どうしても終わらなくてね。5時にやっとメールで送って、とりあえず解放された」

「とりあえず、お疲れ様」

「担当者が超人的な事務処理能力を発揮して、僕に連絡を寄こさないことを祈るよ。明日は一日中缶詰かな。一日で終わるといいな」

道路を横断するとき、崇がリサの手を握った。見上げると、崇もリサを見ていた。口元がほころんでいた。リサは慌てて自分の進行方向に顔を向けたが、意識は握られた右手に集中していた。黙っていると心臓のドキドキが伝わってしまいそうで、思いつきで質問した。

「これからどこに行くの?」

「芝山公園。高校時代、時間があるとよく行った場所なんだ。カード持ってきた?」

崇の方は見ずに肯く。それは昨日の崇の指示だった。チャージも済ませた。

リサは崇の返事に、何か気の利いた言葉を返そうと思って少しパニックになった。どんなに考えても「へー」しか思いつかない。「へー」と言うにも、もう時間は経ち過ぎている。リサは焦りながら、言葉を探した。と、突然方向を変えた崇と体当たりして、リサは転びかけた。とっさに腕を伸ばして崇が支えた。崇は吹き出した。

「僕が今、右に曲がるよって言ったの、聞いていなかったね」

リサは耳まで真っ赤になった。

「ごめんなさい、ごめんなさい。ボーっとしていて!」

崇はサングラスを外すと胸ポケットに入れ、リサの頭をぽんぽんと軽く叩いた。口元は笑ったままだ。

「ありがとう。今のですっかり目が覚めたよ。サングラスが危険だということもね。それから、何を考えていたのか後で教えて」

崇の瞳がキラッと光ったように見えた。

 

 リサの住むマンションは大学や大きな公園に程近い場所にあった。二つの路線の中間にあり、目的地によって乗る駅を決められる。日本人も比較的多く住んでいて、現に、隣の住人も日本から赴任して来た結婚間もない夫婦だ。

 マンションから駅までは、どちらに行っても十分程かかる。大通りに出てから、その道をしばらく真直ぐに歩く。大きな交差点の近くにメトロの入り口があった。

メトロに乗り込むまで崇は黙ったままだった。相変わらず口角が上がっていて楽しそうな顔だった。

平日の出勤時間帯が過ぎたせいか、車内は思ったより空いている。二人は並んで座った。

「さあ、教えてもらおうかな。僕の声が聞こえないくらい必死に考えていたのは、どんなこと?」

あまりの不甲斐なさに、崇に話すことすら恥ずかしい。

「大したことじゃないから・・」

「僕の声が聞こえないくらい、大したことじゃない?」

崇は、引き下がる気配がなかった。

「あの、です。さっき行く場所を訊いたとき、崇の言葉に何か返事をしたかったの。何か、会話の弾むようなことを言いたかったの。でも、『へー』っていう言葉しか出てこなくて。時間が経ちすぎちゃって『へー』も言えなくって・・」

崇はリサの肩に手を回した。

「そうだったのか。笑ってごめん。バカにして笑ったわけじゃないんだ。リーが、君が可愛かったんだ」

てっきりからかわれると思っていたリサは、崇の思いがけない反応に驚いた。

 

 崇は何ごともなかったように、話題を変えた。

「あれから外出とかしている?」

「ええ。買い物とか、散歩とか」

「大安森林公園が近いね。僕もあの公園は好きなんだ。買い物って服とか?一人で?」

「一人ではまだ。いつも母に付き合ってもらっているの」

それからリサは、日本から持ってきた服をほとんど捨ててしまった話をした。崇は「よくやった!」と褒めてくれた。

「要らないと思ったものは、どんどん捨てたほうがいいんだよ。そうすると、新しいものがどんどん入ってくる」

「へー、初めて知った」

「どんなものでも、溜めていると淀んでくるんだ。水でも、物でも、感情でも」

 

「崇の家は、この沿線なの?あの家に一緒に住んでいるんでしょう?」

リサは車内に掲示されている路線図を見ながら訊ねた。

「僕は一人で住んでいる。実家は今から行く場所の方角だけど、車じゃないと不便なんだ。

僕が住んでいるのはここ。今日降りる駅はこっち」

崇は立ち上がって、路線図を指差して説明してくれた。

「君が入国した空港はここ。空港の北側。最近人気の高級住宅街なんだ。僕の住んでいるのはちょっと古くてね。若干安いんだよ。若干だよ。いずれ両親の家を管理するのは僕だし。家にこもって仕事をすることが多いから、環境重視。古いけどベランダから湖が見えるんだ。駅からも近いし。だから決めた」

窓から湖の見えるマンション。どんな部屋なんだろう。リサは少し妄想した。

「興味がある?」

「ええ」

「今度、来てみる?」

「部屋に?」

「そう」

どうしよう。リサは何と言ったらいいのか分からなかった。行ってみたいと思う。思うという言葉はちょっと違う。もっと強い。行きたいのだ。でも崇の部屋に一人で行くというのは別の意味も含んでいるし、自分がそこまで了解して行きたいかと訊かれたら、正直分からない。はっきり答える勇気がない。気の回しすぎなら恥ずかしい。第一、崇がどう思っているのかリサには分からない。

「さあ、降りるよ」

崇はリサを促した。駅を出ると、庶民的な町が広がっていた。観光客らしい人は見当たらなかった。崇に手を引かれるままに付いて行く。

 

 二人は古い石段の前に立ち止まった。途中に『芝山公園』と書かれた門がある。高校時代、崇は何を求めてこの場所に来たのだろう。リサが見上げると、石段は空まで続いているように、果てしなかった。崇はリサを見ていたずらっぽく笑った。

「リー、上まで競走しよう」

そういうと、一段飛ばしで上り始めた。

「ちょ、ちょっと待って!」

リサの声に崇は立ち止まって振り向いた。一段ずつ慌てて上るリサに、手を伸ばす。

「さあ」

リサは崇の手を握ると、わざと体重をかけて崇を引きずり下ろそうとした。ところが予想していたかのように力を抜かれて、体重をかけた分、自分が後ろに転びそうになった。

崇が手を離さなかったから、何とかバランスを保てたようなものだった。

「もう!」

「まだまだだね」

崇は大きな声で笑った。

「さあ、お嬢様どうぞ。ゆっくり話をしながら上ろう」

崇が差し出した腕に、リサは自分の腕を絡めた。二人は腕を組んで一段ずつ上っていった。

 

「メトロで話していた続きだけど。リーはまだ僕にはっきりと答えていないね。迷っている気持ちを話してくれるかい。恥ずかしがらないで。僕達はお互いをまだよく知らない。一つの言葉、出来事について感じることは人それぞれだろう。それは正直に伝えないと分からないことだと思わない?特にリーは、自分の気持ちを飲み込んでしまう癖があるから。僕はどんな些細なことでも、リーの気持ちを訊きたいんだ」

リサは胸が震えた。

「どうしよう、崇の今の言葉で涙が出てきちゃった」

そう言いながら、急いでハンカチを探す。こんなに信頼できる男性と巡り合えた幸せは、とても言葉では言い表せなかった。

「僕の胸は必要?」

崇がからかっているのが分かったので、リサは涙を拭きながら笑った。

「もう大丈夫」

その言葉を聞いて、崇はがっかりした顔をした。

 

「私は崇の部屋に行きたいの。でも、男性と二人きりで、例えばその人の部屋に入るってことは、普通セックスをOKした意味があると言うでしょう。それはまだ・・・第一私達はまだ恋人同士ってわけでもないし。そんなことを崇に確認して、驚かれるのも恥ずかしい。でも行ってみたい。だから答えられなかった」

リサは正直に話してくれた。内容は崇が薄々感じていたことだが、どこまで打ち明けてくれるのかは賭けみたいなものだ。リサの性格からしたら、きっと気まずい気分になっているだろう。

「ありがとう。正直に話してくれたこと。僕を信頼してくれてすごく嬉しいよ」

そしてリサの髪に軽くキスをした。

「女性を自分の部屋に誘ってすんなりOKされたら、セックスまでOKだと思うかもしれない。僕も男だしね。全面的に否定はできない。でもね、そこに至るまでのプロセスによるよ。気軽な気持ちで声をかけた女性を部屋に誘ったら、もちろん最後までOKだと思うし、反対に数ヶ月付き合った彼女を部屋に誘った場合も、ちょっと期待はする。リーの場合はどうだと思う?」

崇は大切な言葉を伝えるように、ゆっくりと言った。

「まだ出会ってから日は浅いけど、僕がどんな態度でリーに接しているのか、どう感じているの?」

ゆっくり一段ずつ足を進ませながら、リサが想いを巡らしてしているのを見ていた。答えを聞くまでにたっぷり十段は上っただろうか。

「崇は、今まで、優しくて、私の気持ちを知りたいとはっきり言ってくれる。私が滅茶苦茶になっても傍にいてくれる。私の言うことをそのまま受け取ってくれる。とても大切にしてくれていると思う」

最後まで言い切ると、崇を見上げた。崇はリサを愛しいと思いながら微笑んだ。

「そうだよ。リーを最上級に大切にしている。さっき、僕達がまだ恋人同士じゃないと言ったね。同情や親の友人の娘って関係だけで、ここまでやると思う?」

リサは何も言わなかった。

「リーは分かっているのかな、僕はもうすでに自分の想いを伝えていること。でも、リーが僕の部屋に行きたいと言ってくれたから、僕はもう一度はっきり言うよ」

崇は立ち止まってリサの耳に囁いた。

「我最重要的人」

「え、何?」

崇はこの言葉を日本語で言うつもりで言えなかった。とっさに中国語に変えた。理由は分からなかったが、不思議と心は満たされていた。

「知りたい?それなら、僕の行動を良く観察することさ」

崇は自分の腕に回されたリサの腕を、そっと撫でた。

「安心して僕の部屋においで。僕はリーの嫌がることを無理強いしたりしない」

リサの瞳からはさまざまな感情が読み取れた。そのどれもが崇には嬉しかった。今はお互いの信頼関係を築くことが重要で、それが磐石でないと先に進めない。二人がこのタイミングで巡り合った意味を、その重要性を、崇はおぼろげながら理解した。

いつの間にか、二人は果てしない石段を上りきっていた。

 

 

 

 

 

 石段を上りきると、少し開けていて石の道が続いている。その道が二股に分かれる正面は木がうっそうと茂り、その葉陰から、何か石で作られたものがのぞいていた。まるで遺跡のように見えた。崇は石の道を迷わず歩いた。

「ここにはね、日本と台湾の複雑な歴史があるんだ。日本の統治時代、日本から教師が六名派遣されてきてここに小学校を作った。もちろん日本語を教えるためではあったけれど、当時、台湾の殆どの子どもが学校に行ってなかったから、教師達は教育こそ第一と熱心に教えていた。そんな時、抗日運動の犠牲になってしまった。戦後は、全て取り壊されたけれど、その教師達の遺骨は、ここの寺の人がこっそり移動して名も無い者の墓として守った。

今、台湾は親日派と言われているけれど、抗日派もいる。僕は日本国籍だけど、生まれ育ったのは台湾だ。でも僕の国籍を知って距離を取る台湾の人もいる。僕が初めて家族で日本に行ったとき、ここが僕の国だという気持ちにはなれなかった。残念だけど、どうしようもない」

崇は立ち止まった。そしてリサを見下ろした。

「ここは、学生時代の僕にとって、特別な場所だった。いろいろな事を考えながら、この山の中をぐるぐる彷徨っていたんだ」

リサは崇に訊ねた。

「哀しかった?」

崇は空を見上げた。それからリサに視線を戻して言った。

「そういう時もあった。でも結局、僕は僕なんだ。国籍や名前や、僕を現す言葉はたくさんあるけれど、それで僕が変わる訳じゃない。そう納得したらスッキリしたよ。もしそういうことで僕に対する態度が変わる人がいても、それはその人の考え方だからね。僕がとやかく言う必要はないと思っている」

「崇は強いのね」

崇はにっこり笑った。

「強いんじゃないんだよ。ただ、自分がこの地に、両親の元に生まれたことの意味を知りたいだけ。それだけ」

 

 崇の足は自然と六氏先生の墓へと向かっていた。ここに来ると必ず手を合わせに寄っていた癖だろう。傍らにリサがいる意識はあったが、心はこの六氏の時代に漂っていた。

日本に統治されて学校ができ、子どもを通わせた台湾の人々。日本の統治下であっても、情勢の不安な敵の国で、教育のために情熱を燃やした教師達。互いにどんな思いを持って生きていたのか。抗日運動が激しくなったとき、この教師達を守りたいと逃亡を助言した人もいる。戦後、中国政府によって取り壊される墓から、遺骨をこっそり移してこの教師達の尊厳を守った人達。きっと国籍や敵や味方は関係なくなっていたに違いない。人として信頼しあえるかどうか、それだけなのだ。

それから百年も経たずに台湾で生まれた自分は、人と人とを隔てる枠を乗り越えて生きる。それを体現するためにここにいる。そう思えてならなかった。

 

六氏先生の墓の前で手を合わせると、リサも倣うように手を合わせた。二人で先祖の墓参りでもしている気分になった。ここはいつ来ても綺麗に掃除が行き届いている。崇は墓石に乗っていた枯葉を手でそっと摘んで、背後の木の根元に落とした。

「さあ、先祖のお墓参りも済んだし、行こうか。ここは気をつけないと迷子になるんだ。それも楽しいけどね」

 

 緑道のあちこちにはベンチがあり、二人は木陰に休んでいろいろと話した。

崇は前方の木の根元を指差した。リスがいる。体をちょこちょこと動かしていた。そして二人の視線に気が付いたのか、サッと木に上って見えなくなってしまった。

「リスだわ。可愛い」

「リスだね。あれは誰が見てもリスだよね」

「変な言い方」

「私はリスですって言わないとリスだと信じてくれない。そんな人はいないだろう?でも恋愛ではよくあるんだ。みんな気がついていないけれど」

「どういうこと?」

「恋愛に関して、人は言葉に拘り過ぎるということさ。『愛している』とか『恋人になって欲しい』とか。まあ、言葉で言われると安心する気持ちは分かるけど。

愛しているなら、その相手に労りとか信頼とか尊敬とかを感じて、その思いを行動に表す。僕はそれが愛だと思っている。ところが、どんなに愛を感じて接しても言葉を言わないと信じてくれない。それも、何度もね。逆に言葉さえ言ってしまえば、エゴを押し付けても愛だと勘違いしてしまう。行動を見れば一目瞭然なのにね。だから僕は言葉を欲しがる女性に対して、最初は好きでもだんだん気持ちがついて行かなくなる。僕の行為は伝わっていないと感じるからだろうね。」

そして更に続けた。

「今日、僕はリーに言った。お互いの気持ちを言葉に表すことの重要性を。それと矛盾すると思ったかもしれない。自分の気持ちを伝えるのはとても大切なこと。でも相手に、自分が言われたい言葉を強要するのは利己的。リーが僕の行動で理解できないことがあったら訊いて。僕の気持ちを知って欲しいから。僕もリーに訊くから」

崇は大きく伸びをすると「僕の今の気持ちは、お腹が空いた」と言って笑った。

 

 芝山公園を出ると、のんびりと街並みを眺めながら歩いた。途中、崇が通っていた日本人学校とアメリカンスクールの横を通った。身体が弱かったと言っていた崇が、毎日ここに通っていた。そしてあの芝山公園を歩き回りながら、いろいろなことを考えていた。リサは、その全てが愛おしくてたまらなかった。そして握っていた手に力を込めた。

「うん?」

崇がリサを見る。

「ううん。ここに通っていた頃の崇に会いたかったなぁって」

「日本人学校のときは欠席が多くて。友達と仲良くなったと思うと入院したりして。でも一人親友がいて、彼が勉強を教えてくれたりしたんだ。彼のことはまたいずれゆっくりね。レストランがもう近いし」

わき道に入ると、鮮やかなブルーでペイントされた可愛らしいお店が目に入った。

「ここのガレットが好きなんだ。日本でもガレットが食べられるお店って少ないね。前にいろいろ調べたことがあるけど」

「私、ガレットは一回食べたことがある。クレープはスィーツのイメージなのに、ガレットは食事だから、凄く不思議な感じがした」

二人は食事をしながら、お互いに訪れたことのあるヨーロッパの話題になり、リサが大学時代留学していたイギリスに関しては、やはり食事の話題で盛り上がった。崇は二週間の滞在中、チャイナタウンを転々としたと告白した。イギリスには香港が中国に返還されたときに流入した人々がいて、主要な街にはチャイナタウンがある。最近は、日本の有名ラーメン店が続々とロンドンに出店している話も聞いた。リサは数年前のイギリスにいた日々を、懐かしく思い出していた。

 

 

 

 

 

 ガレットの店を出ると、大通り沿いに歩いた。この辺りは外国人居住者が多いためか、アルファベットの看板を掲げた店が多かった。それにリサの目を引くようなショップも目立った。

いくつかのショップに入っては、気に入った服を買う。その度に、崇がその服に合わせられるものをプレゼントしてくれるので、買い物袋はあっという間に増えていった。最初、リサが遠慮すると「日本で約束した」と言った。2件目のお店では「一つだけとは言わなかった」と主張した。そして3件目では「僕が使うんだ」と言って買っておきながら「やっぱり僕には似合わない」と言った。リサは吹き出してしまった。

 リサが服を捨てた話をしたからか、崇は買う気満々だった。

「ショッピングがこんなに楽しいとは、今日初めて知ったよ」

「崇は服を買わないの?」

「僕の家には充分に服がある。男の服は女性の服ほど変化がないからね。時々気分転換に買うくらいかな」

 

 途中でタクシーを拾った。崇が中国語で行き先を告げる。リサには台湾語と中国語の違いは何となく分かる。音の響きが「ほわんほわん」しているのが台湾語、「ぱきぱき」しているのが中国語。ショッピングをしながらこの話をしたら、崇は大笑いした。

「次はどこに行くの?」

リサは訊いた

「昼寝の場所」

「昼寝?」

「気持ちがいい場所があるんだ」

 

 タクシーは大した距離を走らずに車を止めた。

そこは河川敷の整備された公園だった。

「この公園は、休みの日になると人だらけになる。僕がフリーランスでよかったと思うのは、平日ここに来てのんびりできるときだね」

見渡すと、人影はまばらだ。芝生のエリアが広々とあり、向こうには花が咲いているのか、それが美しい絨毯のように見える。さらにその向こうにはスポーツ施設のような建物が見えた。

 崇はさっさと寝ころがっていた。胸ポケットにしまっておいたサングラスをかけている。

「リーも寝てごらんよ。気持ちがいいから」

寝ころがると、芝が身体にあたる感覚が新鮮だった。リサの視界は空だけになった。雲はまばらに散らばって、空の青さを強調している。リサはバッグからスマホを出して、空の写真を何枚か撮った。

 隣から寝息が聞こえてきた。崇が徹夜明けだったことを今さらのように思い出した。リサは、銀座で声をかけられたときのことを思い出した。あの日からまだ3週間も経っていない。

あのとき、崇は私を探して声をかけたのか?いいえ、そんな筈はない。あれは本当に偶然だった。リサは出国前にホテルに泊まることを、聡子にも話していなかった。それにたとえ崇が顔を知っていたとしても、あのタイミングで出会うことは無理だ。けれども、空港で再会したときの崇は特別驚いた様子もなかった。それが謎だ。こんな偶然の再会がなければ、二人は永遠に会うことはなかっただろう。崇に訊いてみたいと思った。

リサは崇を起こさないように、そっと身体を起こした。崇の胸は規則正しく上下していた。もし崇のことを芸能人だと紹介されたら、ほとんどの人が信じるだろう。目鼻立ちがはっきりしているのに加え、どことなく漂う育ちの良さが、落ち着いた繊細さを醸し出していた。それが人を惹きつける。きっと今までも女性にもてただろう。リサは自分のどこを崇が気に入ったのか、全く想像つかなかった。

 

崇が目を覚ましたら、リサが真剣な表情で考えていた。崇を見ている体勢のまま視点が定まっていない。「リー」と声をかけると視線が崇に戻ったが、表情は変わらない。崇が身体を起こしても、やはりそのままだった。

「何かあった?」

崇は少し不安になってリサに訊いた。

「崇さん、訊きたいことがあるの」

リサが『崇さん』と呼んだことを訂正するような雰囲気ではなかった。何か重大なことだろうかと思い、姿勢を正してから「何?」と答えた。

「あの、銀座で私に声をかけたのはなぜ?私のことを知っていたの?」

崇は身体から力が抜けそうになった。

「あの日、僕がリーに声をかけたのは、声をかけずにはいられなかったからだ。君が自分のことをどう思っているか分からないけれど、あのときは、君は君そのものとしてあの場所に立っていた。その姿はとても美しかった。髪型がどうとか、メイクがどうとか、スタイルがどうとか・・・そんなものは全く関係なく、リーはリーそのものだった。

もう一つの答えは、声をかけたときは関根家のお嬢さんと知らなかった。それに気がついたのは、帰国してから。メイリンに車を出して欲しいと言われたとき、ハッと気がついた。聡子が持っている写真を何枚か見ていたからね」

崇の答えをじっと聞いていたリサは、まだ納得していない様子だった。

「もしそうなら、どうして私をお茶に誘うとか、連絡先を訊いたりしなかったの?そんなに心が動いた相手なら、あの状況なら、何もせず別れられるの?」

崇はリサを見つめた。緩やかにウェーブした髪が肩先にかかり、二重の大きな瞳が崇をじっと見つめている。先週会ったときより顔色も良く、少し頬がふっくらしている。

「僕が声をかけた後のリーはとても怯えていた。一刻も早く僕から逃げ出したそうに見えた。そんな相手をお茶に誘ったり、連絡先を訊いたり、僕にはできないよ。それに、これはリーにはもしかしたら理解してもらえないかもしれないけれど、僕は本当に縁があるなら、必ず関係を深められる機会があると信じているんだ。それはリーとのことだけじゃなく、仕事とか場所とか自分が体験した出来事とか、全てにおいてそう信じている。

 銀座でリーに声をかけたとき、僕は時間がなかった。メイリンに頼まれた買い物をするために店に向かっているところで、急いで買ってホテルに戻り、荷物を持って空港に行く時間が迫っていた。だから僕は信じた。リーとの出会いが一時的なものでなければ、必ず再会できるって」

崇はリサから目を離さなかった。自分の日本語でどこまでリサに伝わったのか不安に感じたが、伝わるときはどんな言葉でも伝わるんだと思いなおした。リサの目から涙がこぼれた。

「私・・・」

崇は優しく笑いながら訊いた。

「僕の胸は必要?」

リサはこっくりと肯いた。リサを自分の膝の上に乗せると抱きしめた。

「リーが関根家のお嬢さんだと気がついたときの僕の姿を見せたかったよ。ジャンプしすぎて、下の部屋からクレームがきた。本当にこんなに早く君と再会できるなんて、思ってもいなかったんだ」

「崇は神様みたい」

リサのくぐもった声と温かい息が崇の胸から聞こえてくる。とても安らかな幸せを感じた。崇はキスしたかった。けれどそれはまだまだ先のこと。崇は良く分かっていた。

 

抱きしめていた腕を解くと、今度は崇が真剣にリサを見た。

「リー、今度は僕から質問だ」

リサが緊張したのが伝わる。

「自分のことを病気だと言ったね。その病気は良くなってきたと感じている?」

リサはホッとしたように笑って答えた。

「もうすっかり回復したように感じているわ。外出はまだ一人では無理だけど、とても楽しいし、本も読めるようになった。崇のおかげだと思っている」

リサは素直に感謝の気持ちを伝えた。それを聞いて崇は嬉しく思ったが、厳しい表情を崩すわけにはいかなかった。

「確かに僕が見ても元気になったと思う。でも本当に回復したこととは違うよ。リーが僕を信頼してくれたから、僕もリーを信頼して伝えたいことがある」

崇は言葉を選びながらゆっくり話した。

「この間、たくさん悪口を言ったのを覚えている。あれはとても重要なことだった。とにかく心の中に溜めていた苦しみを吐き出さなくちゃならない。それがあの悪口だった。それができたから、リーは気持ちが楽になって楽しく過ごせるようになった。でもそれは、一緒にいるのが僕や聡子や俊史だからだ。心を開いても傷つけられないと信頼した人だけだ。

リーを苦しめる元凶は、まだ君の中にある。それがある限り、以前と同じような環境に戻ることで同じことを繰り返す。そして、この元凶と立ち向かうのは自分自身しかできない。僕が代わることはできないんだ。僕は、リーが勇気を持てるように傍にいて応援するしかできない。

元凶というのは、不満や怒りや悲しみを生み出すけど、自分がそんな感情を持っていると思いたくないから、普通は見ないように避けている。自分のどろどろした嫌な部分を見るのは辛いからね。でも僕は、リーに立ち向かって欲しいと願っている。それは二人の将来に大きく関わることだからだ。でも僕には強制できない。これは自分の意思で決めなくちゃならないことなんだ。だからよく考えて答えて欲しい」

リサは黙っていた。

「つまり、人は不愉快な感情を持つとき、その原因となった人物とか環境を探す。例えばここに僕達がいて、誰かが僕達に暴言を吐いたとする。するとリーも僕も、その相手に対して怖いとか腹が立つとか感じる。『あいつのせいで不愉快になった』って言葉、よく聞くだろう。

でも、そういう感情を抱くのはその相手のせいじゃないんだ。僕らの中にそういう感情を呼び起こすスイッチがあって、僕達はそのスイッチを選んでいる。もしそのスイッチを壊すことができたら、誰が暴言を吐いても、恐怖も怒りも湧き起こらない。つまり平和に暮らせる。自分が傷つけられないように、心を閉ざさなくても平気になれる。僕の日本語は正しく伝わっているかな?」

リサは肯いて言った。

「私が自分を守ろうとして、自分の中に閉じこもっていても、自分を傷つけているのは自分自身だから、結局どんどん悪化していくということなの?そのスイッチはどうしたら壊せるの?」

リサの声は少し震えていた。でも、崇が伝えたいことは分かってくれた。崇は少しホッとした。

「リーみたいに優しくて真面目で察しがいい人は、加速度的に悪化していく。そしてそのスイッチを壊す第一歩は、そのスイッチができてしまった過去の出来事を思い出すこと。それから、そのときに感じた気持ちを思い出す。その感情を認める。違う選択肢を検討する。話をしながらだから順番にはいかないけれど。自分の本心を理解するためなんだ。そのときの追体験、同じ感情をもう一度体験するのが苦しいかもしれない。だから苦しくても立ち向かうという自分の決意がとても重要になる。

今すぐじゃなくてもいいよ。でも結論がでたら教えて欲しい」

リサは崇の腕に手をかけて、必死な表情で問いかけた。

「二人の将来に関わるってどういうこと?お願い教えて」

「今の状況を正確に言うと、リーは僕という安定した存在を拠所にして安定しているんだ。それは僕に依存しているということ。依存状態が続くと、いずれ僕が君を負いきれなくて破綻をきたす。どういう結末を迎えるか分からないけれど、僕は君を切り離すしかなくなって、関係は壊れる。

本来はそれぞれが自分の力で自立して、経済的な意味じゃないよ、心の自立だから。自分ひとりでも充分幸せを感じられる自立した僕達が、二人で更に大きな幸せを築いていく。そういうことを経験するために、僕達は今、こうしてここにいるんだと思う。

僕が今までに経験してきたことがリーのサポートを可能にしているし、そうすることが僕にも必要なんだと思う。それを二人で経験することが、絆を強めていくことになる気がする」

「私、やります!立ち向かいます!」

リサが即答したので、崇は驚いた。

「だって、立ち向かわなかったら、またあの苦しくて、身体が動かなくて、言葉が喋れなくて、吐きたくても吐けなくて、もう全てを、何もかも、全部捨ててしまいたくなって、自分が誰なのか分からなくなって・・・。それを自分の中に持ち続けるってことでしょう。もういやなの」

最後のほうの言葉は嗚咽と混ざり合っていた。リサは崇にしがみついた。

「辛い思いをしたね。リーは絶対に乗り越えられる。それを信じるんだ。自分自身を信じて」

 

 二人は、しばらく無言のまま座っていた。日が傾き、風も少し出てきた。長い沈黙を破って崇が口を開いた。

「僕の話を聞いて欲しい」

そう言ってリサを見た崇は、少しだけ悲しげな顔をしていた。

「僕の親友、僕が入院していても彼が勉強を教えてくれたって話したよね。彼はガイって言うんだ。

 ガイとは小学校からハイスクールまでずっと一緒だった。小さいときから、本当に優秀だったんだ。何でもよく知っていて、僕が元気なときは一緒に話ばかりしていた。普段はあんまり喋らないけど、新しいこと覚えたり、何か自分で発見したりすると、すごく楽しそうに僕に教えてくれた。僕はガイが大好きだった。今でも大好きだ。・・・でももう会えない」

崇の言葉は淡々としていたが、その奥にある癒されない悲しみを、リサは感じ取っていた。

「17になった頃から、ガイは少しずつ変わっていった。最初は些細なことだった。授業で簡単な問題を答えられなかったとか、その程度のこと。ガイだからクラスメイトは驚いたけれど、体調が悪いこともあるからだと思っていた。そのうちに、授業中にぼんやりしたりして、みんな何か変だと感じ始めた。

 僕はそのころやっと体調も安定してきて、運動とかもできるようになってきた。ずっと諦めなくちゃならなかったことがやっとできるようになって、結構浮かれていたんだ。でも、ガイの変化には一番初めに気がついたよ。だっていつも一緒にいたから。

 僕が『どうしたの』って聞いたとき、ガイはポツンと答えたんだ『僕は誰なんだろう』って」

リサは胸が苦しくなった。ガイの一言は、そっくりそのまま自分の言葉だったからだ。

「リー、大丈夫?でもこれで分かっただろう。僕の経験がリーに役立つ意味が。

 ガイはだんだん心の闇に飲み込まれていった。彼は両親や周りの期待に応えるうちに、自分が本当に好きだった『知る』ということを見失ってしまった。本当のガイは、自分の知らないことを『知る』ってことが大好きだったんだ。彼にとっては学校のつまらない授業でさえ、楽しみの一つだった。でもそれを見失ってしまった。

 最初の頃は励ましたり慰めたりしていたけど、だんだん僕にも話をしなくなってきた。だから僕は必死にガイの知らなそうな話題を見つけては、彼に話したんだ。始めは上手くいったよ。彼が僕の話に耳を傾け、一瞬だけど瞳が輝く。ガイと離れている時間、僕は必死になって雑誌から情報を探していた。そして見つけるたびにガイに話した。

僕は思いつく限りのことを全部やった。でも、とうとう入院してしまった。ガイの家に何度も行ったけど、どこに入院しているか教えてもらえなかった。

 彼が死んだことは学校から知らされた。死因は分からない。知っても、彼がいないことに変わりないし、何の慰めにもならない。

僕は何もできなかった。僕の目の前にいるのに、ガイがどんどん僕から遠ざかっていくのを肌で感じた。でも何をしても、腕を引っ張っても、ガイが行ってしまうのを止められなかった」

崇はしばらく黙った。太陽はまだ沈んでいなかったが、空はオレンジ色に染まり、もう間もなく夜が訪れることを知らせていた。

「大学に進学できたけれど、しばらくは自分の家から一歩も出られなくなってしまった。僕はガイの苦しみの一部を、自分で抱え込んでしまっていたんだ。

両親がね、僕を一人にしないように、交代で僕の傍にいてくれて。最初はそんなことも気がつかなかった。二人とも仕事が忙しいのに、全て投げ出して隣にいてくれた。あるとき、その両親の姿がガイの隣にいた僕に見えたんだ。泣いたよ。どれだけ泣いても涙が止まらなかった。

それからやっと僕はカウンセリングを受けられるようになったんだ。なんとか元気にもなった。そんなこともあって、大学の専攻は西洋史だったけど、心理学の講義も受けたりして勉強した。カウンセリングのテクニックを自分自身に試してみたりしてね。

そして今に至る」

崇はリサを見た。

「ごめんね、リー。僕の話は辛かっただろう。君にはまだ生々しい話だと思う。誤解して欲しくないから、はっきり言うよ。僕はガイにできなかったことを君にするわけじゃない。ガイのことは、まだ僕の中でも癒しきれない過去だけれど、それとリーのことを重ね合わせているんじゃない。信じて欲しい」

リサは言葉にならない想いをどうやって伝えたらいいのか分からず、崇の頬にキスをした。崇はハッとした。そして「ダメだよ、リー。君は僕の気持ちを全く分かっていない」と小さく呟きながら、そっと唇を重ねた。

崇の言葉はリサには届かなかった。崇が台湾語で呟いたことに気がついたのは、その夜、自分のベッドで眠りに落ちる前だった。

 

 

 

 

 

 次の日の朝、崇から電話がないかわりにメールが届いた。今日は一日中、仕事で会えないという内容だった。何時になるか分からないけれど、夜電話すると付け加えてあった。

 リサは昨日のことを何度も思い出しては、一日ぼんやりと過ごした。聡子が何気ない振りをして「何かあったの?」と聞いてきたので、崇の親友のことをかいつまんで話した。聡子は涙を浮かべ「リサがここにこうしていてくれて、本当に嬉しい」と言った。

 実際、リサは昨日のガイの話にショックを受けていた。自分も彼と同じ道を辿る可能性があった。いや、ほとんど同じ道を歩んでいた。彼の死因は容易に察しがつく。それは崇も同じに違いない。けれども崇がそれを口にしなかったのは、ガイの死を噂話のように扱いたくなかったのかもしれないと、リサは思った。そして想いは、そのまま崇とのキスに移っていった。リサは指で唇に触れた。唇を重ねただけのキスは、温かくて優しくて、崇そのものだった。キスの後で、リサはまた泣いた。自分の意思とは関係のないところで、涙がこぼれているみたいだった。「なぜ涙がでるのか、分からないの」と言うリサに、崇は「それでいいんだよ」と微笑んだ。

 

 8時過ぎにリサの携帯がなった。リサは慌てて電話に出た。「もしもし」と言うと向こうから崇の声が聞こえた。

「ゴメン、まだ終わりそうになくて。今、僕は関係ないところだからこっそり電話している」

まるでいたずらっ子のような、楽しそうな声だった。

「仕事中に大丈夫なの?」

「もちろん内緒だよ。待ち時間の方が長くて、食事はまあまあ」

リサはクスッと笑った。

「本当は全部終わってからゆっくり電話したかった。ところが、この後レストランを予約しているって。さっき聞かされて、がっかりだよ」

「でも、忙しいのにこっそり電話くれて、ありがとう。声が聞けて嬉しいわ」

「僕もさ。そろそろ行かなくちゃ。じゃあ、また明日」

きっと疲れているのだろうに、そんな風には全く感じられない。まだ明るいスマホの画面に向かって「無理しないでね」と囁いた。

 

 

 次の朝、いつもの時間を過ぎても崇からメールも電話もなかった。リサは自分から電話をしようか迷った。昨夜遅くまで仕事がかかって、まだ寝ているのかもしれない。でも今まで、疲れていても電話をかけてくれた。もしかしたら体調が悪いのかもしれない。そう思うと矢も盾もたまらず、リサはコールをタップした。呼び出し音がしばらく続く。すると「・・・ウェイ」と声が聞こえた。リサが話しかけようとしたとき「リーおはよう」と眠たそうに崇が続けた。

「あ、やっぱり寝ていたのね、起こしちゃってごめんなさい」

「ん?リーの声で起こされるのは、嬉しいよ」

「夜、遅かったの?」

「遅かったよりも、ちょっと飲みすぎ。まだ酔っているかも」

崇の声はまだ寝ているみたいで、日本語の合間に中国語が混ざっていた。リサには、いつもと違う崇が可愛く思えた。

「今日はゆっくり休んだほうがいいわ。もし時間があったらメールか電話をちょうだい」

崇がちゃんと覚えているかどうか、はなはだ疑問だけれど、リサは崇の耳にメッセージを残した。

 

 崇から連絡が来たのは3時を少し回った頃だった。

「朝、リーと何か話した?良く覚えていないんだけど」

崇は気まずそうな声で訊いた。リサはクスクス笑った。

「うん、崇はまだ酔っ払っていたみたい。日本語と中国語がごちゃごちゃだった。面白かった」  

「ああ、ごめん。寝不足が続いていたから、ホッとしたのもあって飲みすぎた。何しろ長期間この仕事に関わっていたから」

「どんな仕事だったの?」

「日本から大型機械を導入するプロジェクト。通訳と翻訳の両方で。これ以上は詳しく話せないんだ」

「もうすっかり終わり?」

「翻訳の方の直しは、昨日の作業の中で直しながら進めていたから、最後にデータを渡して、全て終了。それで明日、うちに来ない?聡子と出かける?明後日からまた一週間、通訳の仕事なんだ」

崇が最後の一言を殊更寂しげに言ったので、リサはまた笑った。

「フリーランスなんだから、お仕事が詰まっていてありがたいことだわ」

「いや、僕はリーと会う時間を死守する。それで、明日は大丈夫?」

「どうしようかな・・。なーんて、大丈夫よ。私の時間は崇にはワイドオープンなの」

電話の向こうで崇が笑った。

「じゃあ、明日は車で迎えに行くよ」

リサは崇の声を遮るように、強く言った。

「一人で!私、一人で、メトロで行きたい」

崇はしばらく黙っていたが「第一歩だね」と答えた。

 

 

 リサは崇に教えられたとおり、最寄りの駅からメトロに乗った。聡子と買い物に行くときによくこの駅の近くを通るので、迷うことはなかった。崇の住む場所までは乗り換えの必要がない。崇から、途中で気分が悪くなったらすぐに電車を降りて電話をしろと言われている。それを言われたときは、崇のことを過保護だと思って笑ったが、一人でメトロに乗っていると、緊張で呼吸が浅くなっている気がしてきた。

後わずかのところまで来て、気分が悪くなった。リサはなるべく息を深く吸いながら「大丈夫、大丈夫」と、繰り返し自分に言い聞かせた。乗客があまりいないのが救いだ。指先が冷たくなってきているのは、呼吸が浅い証拠。

目的の駅に到着する直前が一番辛かった。最後の一駅だから頑張ろうと思ったのが仇になって、激しい吐き気で座っていることさえ儘ならなかった。

 扉が開くと同時に電車から降りてトイレを探す。とりあえずホームにはなさそうなので、改札のあるほうを目指した。「どうしよう」頭の中をこの言葉がぐるぐる回っている。

 前方から急いでやってくる人を避けようとして、少しよろけた。するといきなり「リー」と肩を掴まれた。崇だった。

「大丈夫?気分が悪いんだね。ほら水を少し口に含んで、ゆっくり飲んで」

リサは言われるままに、ペットボトルから水を少し飲んだ。

「トイレ」

「今、向かっているから。安心して。僕の声に合わせて呼吸をして」

崇は「吸って」「吐いて」をゆっくりと繰り返した。リサの呼吸は崇の声より早く、それでも一生懸命合わせようと頑張っていた。

 メトロのトイレにたどり着いたときには、リサの気分はだいぶ落ち着いてきていた。

「ごめんなさい。どこか外の椅子に座りたい」

「ゆっくりでいいから、歩いて僕の家まで行こう。そんなに遠くないから」

リサは肯いた。

 

 崇の胸騒ぎは的中していた。何か嫌な予感がして、改札を抜けホームに降りると、真っ青な顔をしたリサがふらふらと歩いていた。「ああ、やっぱり」と崇は思った。リサが一人で行きたいと言ったときに返事を迷ったのは、こうなることを感じとっていたからだ。崇が絶対に無理をするなと念を押したにも関わらず、リサは自分の限界ぎりぎりまで無理をしてしまう。崇には分かっていた。自分が本当の医者なら、リサの希望を却下していただろう。リサは自分で思っているほどには、まだ回復していないからだ。でも僕は医者じゃない。崇は自分に言った。自分で頑張りたいというリサの自立への芽を摘みたくなかった。

 崇は時々立ち止まっては、リサに水を含ませた。屋外に出たことで、呼吸もしっかりできるようになり、崇が握っている指先にも温かさが戻ってきていた。

いつもなら5分ほどで歩く距離を10分かけて戻ると、自分のベッドにクッションをいくつか置いて、上半身が少し起きるようにしてリサを寝かせた。身体を締め付けている服は緩めて、濡れタオルで首の周りを拭いた。リサは「ありがとう」と小さく言った。そして眠った。

 

 

 

 

 

 リサは目が覚めた。気分はすっかりよくなっていたけれども、また崇に迷惑をかけてしまったことが悔やまれた。寝室のドアは開かれている。リサはベッドから起き上がり服の乱れを直すと、ドアのところで立ち止まった。

崇は窓際に立ち、窓枠に手をかけて外の景色を眺めていた。それは映画のワンシーンのように美しかった。崇の向こう側には湖が広がり、その周りを緑の木々が縁取っている。その中に横向きの崇が立っている。ただ静かに。リサは声をかけるのをためらって、しばらくそのシーンを眺めていた。

 

崇はゆっくり振り向いて、リサを見ると少し驚いていた。

「顔色がよくなった。今、お茶を入れるから、ソファに座って」

リサはソファに腰を下ろすと、リビングをぐるりと見渡した。崇が立っているキッチンはリビングの一角にあるが、キッチンの部分だけ床が白いタイルになっていて、視覚的に区分けされている。中央には応接セットがあり6人がゆったり座れる。そして窓に面した隅には広めのデスクがあり、パソコンが2台。1台はデスクトップでもう1台はノートブック。デスクの上には分厚い辞書が何冊も並び、周辺には本や雑誌が積まれていた。デスクと反対側の窓際、キッチンに近い方には小さな四角いテーブルがあった。さっき崇が立っていたのは、そのテーブルの辺りだった。そちらの窓は開けてあり、ベランダには椅子が一客置かれていた。

 

「実家と違って、ここにはちゃんとした中国茶セットがなくて。カップでゴメン」

崇は二人分のカップを持ってくると、またキッチンに引き返して、今度はカットしたフルーツを盛った皿を運んできた。

「お茶を飲んで落ち着いたら、フルーツをどうぞ。この家にはフルーツだけはいつもあるんだ」

フルーツ皿をテーブルに置くと、崇はリサの斜め向い側に座った。

リサは一口お茶を啜った。さっきまで大騒ぎしていた胃全体に、温かさが伝わっていった。

「あの、今日はごめんなさい。崇に迎えにきてもらっていれば、こんなことにならなかったのに・・・」

崇は穏やかに微笑んだ。

「ちょうどいいから、今から始めよう。食べながらで大丈夫だから。緊張しなくていいよ」

リサは肯いた。

 

「今日のことについて、リサはどんな風に感じているのか話して」

「今日は、メトロに乗るまでは全然平気だったの。電車に乗ってドアが閉まった瞬間、ドキッとして不安な気持ちになった。でもすぐに気のせいだと思ったし、なんともなかった。電車は混んでいたけれど、空港の駅でたくさんの人が降りて席も空いた。なぜかその駅を出発したとき、急にすごく不安になって呼吸が浅くなってきたの。頭が締め付けられるようにきりきりして、目もくらくらしてきた。でもあと少しだから頑張りたいと思った。自分では大丈夫だと思っていた。

今度は一つ手前の駅でドアが閉まった瞬間、次の駅に到着するまでここから降りられないと思ったら怖くなって、突然吐き気がひどくなって、座っていても辛くて。身体が震えて止まらなかった。駅に着いたときにはホッとしたけれど、トイレに行くまでは頑張らないと。そう思っていたら崇が来たの。嬉しくて力が抜けそうだったけれど、崇の前では吐きたくないと思った。あのときは、喋ると吐いてしまいそうだった。だから何も言えなかった」

「電車の中にいた人とか、見えたもので、何か記憶に残っているのがあれば教えて」

リサの瞳は宙をさまよい、記憶の中を探っているようだった。

「大きな荷物を持った女性のグループが楽しそうにおしゃべりしていた。電車から降りたところで大きな声で笑っていた。でもみんなおしゃべりしていたわ。何を話しているのか分からなかったけど、一人で乗っている人以外はみんな話しをしていた。具合が悪くなってからはもう分からないけれど」

「リサは一人だから誰とも話していなかったんだね。リサ以外の人はみんな何か喋っていたんだ。喋っている人たちを見て、どう思った?」

「楽しそうだなって思った。これからどこに行くのかなとか、どんな話の内容なんだろうって思った」

「そう、楽しそうだったんだね。もしその中に知り合いがいたら、話に加わりたいと思った?」

リサは少し考えてから、首を横に振った。

「話には加わらないんだ。それはどうして?楽しそうな会話なら一緒に楽しめると思うけど」

「私はきっと楽しめない。私は話題についていけないから」

「リサが今思い浮かべているのは、会社の人?」

リサはまた首を横に振った。

「高校時代のクラスメイト」

「高校時代?その頃のことを教えてくれる?」

リサは暗い顔で俯いた。なかなか最初の一言が出てこない。

「私、小学校の途中から中学時代までシンガポールに住んでいて、両親の意向でインターナショナルスクールに通っていたんです。崇さんも分かると思うけれど、カリキュラムは日本のものとは全然違うし、英語で授業だったし。だから高校から日本の学校に通いだしたとき、何が何だか分からなくて大変でした。とにかく、自分の意見をハッキリ言うことや、和を乱すような行動をすると、あからさまに嫌なことを言われたり笑われたりしました。英語も、私にとってはコミュニケーションの手段という認識だったけれど、日本では勉強で、授業の内容が分からなかったんです。英文がどんな内容か分かるのに、テストで訊かれていることが分からなかった。インターナショナルスクールに行っていたのに英語ができないって・・・。そのときのクラスメイトは、いつも数人で楽しそうに笑って話していたけれど、その話題は私で、私のことを笑っていたんです」

「リサは、そのことを両親や学校の先生に話した?」

「心配かけるから話さなかった。その代わり一生懸命勉強しました。勉強だけじゃなく、流行やTVとか。そして何か言われても笑って済ませ、みんなの役に立つように行動することにしたんです。そうしたら、クラスメイトも私を認めてくれるようになって、やっと普通に学校生活が送れるようになりました」

「そのクラスメイトに言いたかったこと、まだ覚えている?」

「はい」

「言葉に出せる?」

「・・・私を笑わないで。人はみんなそれぞれ違う。それを認めて欲しい。私はテレビを観るより読書の方が好きなの。だからあなたの趣味を押し付けないで」

「リサは笑われるのが一番きつかったんだ」

「笑われると、自分の全てを否定されたように感じるの」

「確かに、自分を否定されたように感じるかもしれないね。じゃあ、君を一番笑っていたクラスメイトはどんな人だった?」

「彼女は華やかで、ぱっと目に留まる人だった。成績もまあまあでリーダーシップがあったの。でも指図はするけれど自分ではやらない。先生に見せる姿は全然違った。私は信頼できないと思った。心配しているように見せかけて人を傷つけるような人だった。もう二度と会いたくない」

「高校を卒業したら、彼女とは会わなくなった?」

「・・・彼女はいなくなったけれど、似たようなタイプの人は、いつもいた。大学でも会社でも。でも高校と違って一つの教室に閉じ込められているわけではないから」

崇は身振りでリサにフルーツを勧めた。リサはリンゴを一切れ手に取ってかじった。みずみずしい甘さが喉を潤した。

「リサはさっき、人はみんな違うと言っていたよね。僕もそう思う。その違う人たちのことを全て理解することはできると思う?リサはどんな人でも好きになれる?でも少なくとも、そのクラスメイトのことは好きじゃないよね」

リサはリンゴの残りを食べながら、少し考えた。

「全ての人のことを理解することはできないと思う。好きになるのも無理だと思う。だって全ての人って犯罪者とかもいるもの。でも彼女に関しては、もし彼女が最初に私を攻撃しなければ、嫌いにはならなかった」

「リサは、自分が彼女を嫌いになったのは彼女に原因があったからだと思っている、と言うことだね」

崇はそう言いながら、電気ポットから急須にお湯を入れ、それぞれのカップにお茶を足した。リサはドキッとした。崇の言い方は自分の言葉を客観的に言っているにすぎないのに、何かいい訳のように聞こえる。

「じゃあ、その彼女はなんでリサに嫌なことをしたのか考えてみようか。何もイメージが湧かなければ、僕が代弁するけれど。どうする。何か思いつく?」

リサが黙っているので、崇が代弁することにした。

「その彼女は、きっとリサに危機感を感じたんだと思う。君はどちらかと言えば綺麗なタイプだ。背も高くてスタイルもいい。まして海外で生活していた。それだけでも彼女には脅威だったと思う。彼女にどういう過去があるかは分からないが、虐げられる苦しみを知っている人だと思う。だから自分を苦しめるかもしれない存在は、察知した時点で即思い知らせておかなければならないと感じた。つまり自分を守るために、先に相手を攻めるという行動だ。これが全てではないけれど、君の話から想像できる範囲でのこと」

「彼女は私を怖がっていたということ?」

崇は肯いて話を続けた。

「彼女だけでなく、一般的によくあることなんだ。子どもから大人まで、攻撃性の強い人物の根底には、他人に対する恐れがある。自分を守るための行動が多い。そしてもう一つ、恐れに対する対処のパターンがある。相手に迎合するという方法。リサはこっちのタイプ。その彼女の仲間も、たぶん君と同じタイプだと思う。要するに、君たちは同じ恐怖という感情で繋がっている、似たもの同士なんだよ」

「そんなはずはないわ!」

リサは思わず大きな声を出した。

「自分は彼女みたいな嫌な人間じゃない。そう言いたいんだね」

崇の声は冷静だった。リサは絶句した。ずっと心の中に棘のように存在し続けていた彼女と自分が似たもの同士なんて、簡単に納得できることではなかった。

「これが自分と向き合うってことなんだ。苦しいだろう?自分の嫌な部分に光を当てて見つめる作業だからね。止めたいなら止めてもいい。僕は、強制はしない」

崇はそれきり黙ってしまった。

この作業の絶対条件は『本人の意思』があること。それがなければただの徒労に終わる。

 

たっぷり十分は待っただろうか、リサがやっと答えた。「続けてください」と。

「今度は、リサが抱えている恐怖について検証してみよう。自分がどんなときに怖いと思うのか、自分自身に質問してごらん」

リサはクラスメイトとの関係を思い出しながら、何が怖かったのかを必死に探った。やっと思いついた答えは、あまりにも当たり前のことだった。

「私は他の人から嫌われたくないと思っていて、嫌われることが怖かった」

「つまり、自分以外の全員から嫌われたくないと思っている、ってことだね」

リサは肯いた。

「矛盾していることが分かる?さっきは、自分が他の人全員を好きになることは無理だと言った。30分ぐらい前のことだよ。自分が他の人を嫌うことは許せても、逆に他の人から嫌われるのは許せない。客観的に聞くと、どんな風に感じる?」

リサは口に出すのが辛そうだった。

「エゴイスト」

「そう、エゴイストそのものだ。リサの中にあるそのエゴが、君に恐怖を感じさせている。そのクラスメイトは、ある意味、君の心の中のエゴを具現化して見せたんだ。だから君は彼女が嫌いだった。いつも君の前で自分の中の見たくないものを見せてくれていたから。僕の言ったこと、認められる?声に出して答えて」

「私が彼女を嫌いだったのは、彼女の中に自分の嫌な部分を感じていたからです。私はそれを認めます」

「完璧」

崇は笑った。細かい指示を出さなかったのに、リサは完璧な答え方をした。崇は、リサと向き合いながらここまでずっと冷静に誘導できたことが不思議だった。リサの話に対して、次に言うべき言葉がすんなり出てきた。そして辛そうなリサを見ても、動揺することなく待つこともできている。崇はまた気持ちを切り替えて、リサと向き合った。

「次に進もう。高校時代、もしそのエゴがなくて、人に嫌われることが怖くなかったら、リサはクラスメイトの嫌がらせにどう対応できただろう。誰かそういうモデルになりそうな人はいる?」

「お母さん」

リサは即答した。

「そうだね、聡子はそういうタイプだね。じゃあ君が聡子だとしたら、クラスメイトにどういう態度を取ると思う?」

「・・きっと、彼女にこう言うと思う。私はそういうことはあまり好きじゃないの。だから止めて欲しいと思うけど、でもどちらでもいいわ。だって、私にはあなたの行動を縛ることはできないもの。お母さんは、あの優しそうな声ではっきり言うと思う。敵わないと思う」

「そう言われたとき、彼女はどんな風に感じるかな?リサは敵わないと言ったけど、それも彼女の感じることの一つだよね。これからどう対応したらいいと思うかな?」

「近寄らない。でも羨ましいと思う。回りの人の感情に振り回されないことが、すごく羨ましくて、いつかそうなりたいと思うかもしれない。私はお母さんみたいになりたい」

崇は続けた。

「ちょっとここではっきりさせたいことがある。さっきリサは、高校でのことを両親にも先生にも言わなかったのは、心配をかけたくなかったと言ったね。それは自分を誤魔化す言葉だということに気づいた?聡子なら心配をする前に行動しているはずだ。例えリサの受けている嫌がらせが些細なことであっても、それを放置することはしない。君にはそれが分かっていた。心配をかけたくないのではなく、聡子が行動することで自分が更に窮地に陥るのではないかと、君はそれを心配したんだ。違うかい?」

リサは思わず両手で顔を覆った。崇によって突きつけられる自分の姿は、あまりにも衝撃的だった。

「恥じることはないよ。それより自分と向き合うことから逃げないほうが、ずっと尊いことなんだ。それをやっているリサは、自分を誇りに思っていいくらいだ。ちょっとここで休憩しよう」

 

 

 

 

 

崇はソファから立ち上がって窓からの景色を眺めた。ここから先、どう進めていこうかと迷っていた。嫌われることへの恐怖を獲得した原因はどこにあるのか。時計は間もなく2時を指そうとしていた。空腹は感じているが、今は食事をするタイミングじゃない。

「一緒に食べない?」

振り返ると、リサが皿を持って立っていた。

「少しお腹が空いたと思わない?でもしっかり食べる気分でもないし。きっと崇もお腹を空かせていると思って」

崇は微笑んで皿からバナナを取った。リサもバナナを手に持って、皿をテーブルに置いた。スィートスポットが程よく出て食べごろのバナナは、思った以上に甘みがあり、空腹感を少し満たした。リンゴも柿も分け合いながら食べたが、お互いに微妙な距離を保って、身体が触れ合わないようにしていた。

 

「今度はここでやろうか」

崇はそう言って折りたたみの椅子をリサに勧め、自分は仕事用の椅子を移動させた。新しいカップに新しいお茶を満たし、二人の間あるテーブルに置いた。

崇が椅子に座るのを待って、リサは窓の外を眺めながら言った。

「何で嫌われたくないと思ったのか、考えてみたの。そうしたら、そのきっかけはお母さんだった」

「続けて」

リサは肯いた。

「さっきも言ったけど、お母さんは人に何て思われるかって、全く気にしないの。それなのに、お母さんはたくさんの人から好かれるのよ。自分の気持ちを相手に言うことをためらったりしない。でもみんなに好かれるの。私も真似をした。でもね、私が同じようにすると嫌われるの。それがずっと分からなかった。お母さんのように人に好かれたいって強く思った。嫌われるってことは、お母さんから遠ざかることだから」

「お母さんとリサの違いに気がついたみたいだね」

「お母さんは、自分の気持ちを素直に伝えているだけなの。私のは、私のことを分かって欲しいって気持ちが強いの」

リサは泣いていた。それでも言葉を続けた。

「私はこう思っているの。『どうして分かってくれないの』。分かってくれた人もいたけど、反発されたし嫌われた。自分のことを押し付けているんだもの、当然だわ。でもお母さんは違うの。気持ちを伝えて、相手がそれをどう思うとしても、それは関係ないの。お母さんには、自分の気持ちを素直に伝えることが重要であって、それ以上を相手に求めない。だから好かれるの。自分を嫌う人がいることを当然だと思っているから、人と接するときも自然なの。必要以上に良く見せようなんて思わないのよ」

「よく気がついたね。涙は止めちゃダメだよ。充分に流しだすことはとても大切だから」

崇はリサにティシュを渡した。リサは泣き笑いしながらティシュで涙を拭いた。

「それじゃ最後の仕上げをしようか。リサは自分で意識していないけれど、人から嫌われるのが怖いという感情を、自分で握っているんだ。君はまだそれを握っていたいと思う?」

「もういや。こんな気持ち捨ててしまいたい」

崇はにっこり肯いた。

「じゃあ、僕の言葉を真似して声に出して言って」

 

『私は、人から嫌われる恐怖を捨てます。私は恐怖に基づいて行動していた自分を許します。そして自分を愛します。自分に関わった全ての人を許します。私は誰と一緒にいても、素直に自分の気持ちを伝えることができます。私は自由です。私にはその資格があります』 

 

リサは、崇が一言ずつ区切るたびに、同じ言葉を唱えた。崇は2回繰り返して言った。最初はどんな意味があるのかと思ったリサだったが、2回目が終わる頃には、胸から胃にかけて暖かくなり、肩が軽くなった気がした。頬もほんのり赤くなった気がする。そして意味もなく嬉しくなり、自然と笑顔になった。とても清々しい気分になった。

 崇から「どんな気分」と訊かれたリサは、思い切り伸びをしながら答えた。

「うん、何だかとっても気持ちがいい。解放された感じ。うっとりとする。ねえ、あの言葉にはどんな魔法があるの?」

崇は苦笑した。

「あの言葉は、自分の潜在意識に向かって言っている言葉だよ。自分が今まで信じてきたことを書き直すには、自分で自分自身に宣言をする必要がある。そして自分を苦しめてきた自分を責めるのではなく、許す。自分を許せることが他の人を許す大前提だから」

「だから原因を突き止めることが大切なのね。原因が曖昧なままだと、はっきり宣言できないもの。そうなんでしょう?」

「そうだよ。一つ越えたね」

崇はそう言ってリサを抱きしめた。

リサは崇に身を委ねて「愛してる」と言った。崇は「先を越された」と呟いてリサにキスした。

 

 

二人は崇の部屋を出て、目の前の湖の周りを散歩した。崇は、今日の二人の会話の意味を教えた。そしてカウンセリングの間は、客観的な視点を保つために一定の距離をおいて、言葉も親しくならないようにしていることも説明した。そして精神的な変化が、一時的に体調を崩す原因になることも伝えた。真剣に話をしている崇に、リサは言った。

「崇、私すごくお腹空いちゃった」

崇は呆気にとられてから吹き出した。さっそく効果が現れた。リサの言い方には、お腹が空いた事実を伝えるだけで、不満や非難や遠慮はなかった。

「僕の話は聞いていた?大事なことを言っていたんだけど」

崇が言うと、リサは大げさに答えた。

「もちろんよ!私は今まで崇の言葉を聞き逃したことはないの。全部、ちゃんと聞いているわ」

崇は「それはどうかな?」と思ったが、リサの言葉を受け入れた。

「分かったよ。じゃあ、何が食べたい?」

リサは少し考えていたが、目を輝かせて言った。

「夜市に行きたい。まだ早いかもしれないけれど、夜市に行くならもう少し我慢してもいい。人のたくさんいる所に行きたい」

「この時間なら士林夜市が開いている。あそこなら車も止められるし、人もたくさんいるよ」

 

 二人は夜市の中をぶらぶらしながら、あれこれと分け合った。リサが興味を惹いたものは、リサが試してみてから崇が説明した。けれども、ある食べ物のところで崇は渋い顔をして首を横に振った。最初、リサはそのジェスチャーが分からなかった。崇から「これ苦手」と耳打ちされて初めて理解した。

お腹が一杯になると雑貨の集まっている方に移動した。店の人も集まっている人々もエネルギッシュで、それを眺めているだけでも楽しかった。リサは自分で気に入った靴を買い、崇は小さなショルダーバッグをリサに買った。リサが何かプレゼントしたいと言うと、崇はお互いにブレスレットをプレゼントしあうという提案をした。

リサが選んだのは、形が不ぞろいの水晶の間に、名前が分からない薄いブルーの石が散りばめられたものだった。その透明感が、崇に似ていると思った。

車に戻ってから、二人でブレスレットを交換し合った。崇はリサの選んだものを直ぐに腕にはめて、リサが感じていた透明感の美しさを喜んでくれた。そして崇の選んだブレスレットはミルキーブルーの大きな石の両脇に濃いピンクの石が並び、さらに小さめの水晶とイエローとグリーンの石がバランスよく並んでいる、美しいデザインだった。

「このブルーの石はラリマーで、このピンクはインカローズ。どちらも愛に関するパワーがあるらしい。お店の人に訊いたんだ。でも一番は、デザインがとてもリーに似合っていると思ったから」

そのブレスレットは、リサの手首を美しく飾っていた。リサは胸が一杯になった。

「リー。僕は明日から1週間仕事なんだ。日本から来るミュージシャンの通訳で、朝の打ち合わせから夕食まで、付きっ切りになる。休憩のときに電話はできるけど、何時にって約束ができない。ごめん」

「同じ台北で同じ空気を吸っていると思えば、我慢できるかも。でも、何時でもいいから電話してね。待っているから」

「僕のいない間、無理しないで欲しい。今日みたいに助けに行けないから」

「分かった。崇も寝不足にならないように。頑張ってね」

崇が身体を寄せてきた。

「リー、エネルギーチャージさせて」

崇の囁くような声に身体が震えた。リサは崇の吐息を感じて、そっと目を閉じた。