心のなかに眠る人①

明日、日本を脱出する。

 

仕事を辞めたことは早計だったかもしれないが、後悔はしていない。別に何か特別なことがあった訳ではない。ただ、毎日同じ時間に目覚め、同じような服を着て、同じような仕事をして、同じように寝る。突然、それが耐え難いほど苦痛になっただけだった。

 

関根リサは仕事を辞めようと決めたとき、しばらく両親と一緒に暮らそうと思った。リサの両親は、父親の仕事の関係で数年前から台湾に住んでいた。両親に心配をかけるのは本意ではないけれど、今の精神状態で、一人で見知らぬ街に暮らす気にはなれなかった。かといって、今までの環境に身を置くことも耐えられなかった。もうこれ以上何もしたくない。両親の庇護の下で引きこもっていたい。ただそれだけがリサの願いだった。

旅行をするのは、いつか外の世界に興味が持てるようになってからでもいい。とにかく今までの環境を全て捨てて、どこかに隠れてしまいたかった。

リサが「仕事を辞めたからしばらく一緒に暮らしたい」と電話で告げたとき、母親の聡子は理由も訊かずに「あら、うれしいわ」と明るい声をあげ、「詳しいことが決まったら連絡をちょうだいね」と言った。理由を説明しなくて済んだので、リサはホッとして電話を切った。

 

 

フライトの前日。一人で住んでいた自宅を留守にする手はずを整え、トランクに荷物をまとめて銀座の一角にあるホテルにチェックインした。出かける当日に、家の戸締りや食事の後片付けでバタバタするのが嫌だった。それに、旅に出る気分にもなりたかった。台湾では両親のマンションで暮らすので、ホテルに泊まる予定がない。以前のリサなら、こんな無駄なことはしなかっただろう。

夕方、ホテルの一室で、リサは時間を持て余していた。夕食を取るにはまだ早いが、取り立ててやりたいこともない。いっそのこと、夕食も食べずにこのままベッドで丸くなっていようかと思った。けれども、それも何か気が乗らなかった。リサは何の計画もないままバッグを手にすると、ふらっと部屋を出た。

 

湿度もなく、寒いというほどの気温でもない。秋色に彩られた銀座の街を、リサはぶらぶらと歩いた。観光客で賑わう通りを歩いていると、ふと、ショーウィンドウに飾られたワンピースが目に飛び込んできた。スカート部分がフレアになっているシンプルで上品なワンピース。真っ白いフェイクファーのボレロで隠れているが、ノースリーブのように思われた。けれども、リサの目を惹きつけたのはその色合いだった。薄紫と淡いピンクのちょうど中間の、この上もないほど優しい女性らしい色だった。まるで時間が止まったように、リサはじっとショーウィンドウを見つめていた。

 

「あなたに、この服は良く似合うと思いますよ」

リサはビクッとした。

「ああ、驚かせてすみません。あなたが瞬きもしないでずっと立っているので。もしかして精巧な人形かと」

いつの間にか、見知らぬ男性が横に立ってリサに笑顔を向けていた。

「あ、いえ、あんまりきれいな色だから・・」

男の視線から目を逸らすように、慌ててショーウィンドウに視線を戻すと

「そうですね、よく似合うと思います。買ったほうがいいですよ」

と男が言った。リサは思わず、振り向きながら「私が?」と訊きかえした。ところが、その男の目が大きく見開かれたのを見て、リサは慌てて言いつくろった。

「あ、あの今までこんな服を買ったことがなかったから、買うという意識がなくて」

そしてこの男性は日本人ではないなと思った。彼の反応は、日本人の男性らしくなかった。リサは用心深く男を観察した。髪は長めで、どちらかと言えば彫りの深い顔。瞳と口元が優しそうだった。身長は180㎝を越えているかもしれない。ネクタイはしていないスーツは生地の光沢からして良いものだろう。シャツのボタンを胸元まで外していて、仕事が終わった後のリラックスした雰囲気があった。そしてその男は完全な自然体で、リサの隣に存在していた。今さらのようにリサは緊張した。そしてあの不快な身体の感覚が、リサを苦しめ始めた。

「あなたの言うとおりね。この服はきっと私を待っていたのだと思います。ありがとう」

喉元に手をやり、やっとそれだけ言うと、逃げるようにショップの入り口に急いだ。

「もし、また会えたら!」

男の声がリサを引き止めた。

「その時は僕がプレゼントします」

リサが振り向くと、屈託のない笑顔を見せ、手を振っていた。リサは、男が背を向けて人混みに消えるまで佇んでいた。そして、次に会う日があるのだろうかと思った。

 

 

ホテルにもどる道すがら、リサは久しぶりに興奮を覚えていた。店で試着してみると、まるで別人のような自分が鏡に映っていた。メイクの加減もあるかもしれないが、この服が自分に似合うとは思ってもみなかった。

職場でも友人と会うときでも、リサは行動的で冷静な雰囲気を意識した。もともとはっきりしている目鼻立ちに、寒色系のメイクをしていた。スカートは持っているが殆どがスーツ用のタイトスカートで、可愛らしい雰囲気の服は買わなかった。ワンピースは無難なセミフォーマルなものを数枚持っているだけだ。似たようなデザイン、自己主張のない色、華やかなパーティ以外ならどこにでも着ていける服。プライベートではジーンズにシャツか大きめのカットソーですましていた。

部屋に戻って、ベッドに広げたワンピースは、柔らかいルームランプの光に儚げに浮かび上がり、リサを誘っているようだった。

リサは「変わりたい」と呟いた。そしてワンピースを両手で抱きしめながら、涙をこぼした。自分は今まで何を守ろうとして、強い自分を演じてきたのだろうか?他人の期待を全て叶えることなんて、無理に決まっている。精一杯頑張って期待に応えているのに、どんどん期待は大きくなって行くばかりだ。「できません」とは言えない、どうしても言えなかった。こんな風に泣いても仕方がないことだと分かっている。でも今は、強い自分も上手く立ち回る自分も、とてもできそうにない。いや、もう無理だ。明るく颯爽としている姿がトレードマークのリサにとって、今の自分は誰にも見せられないと思った。

 

 

 

 

 

羽田空港を離陸した飛行機は、3時間ちょっとのフライトで台北に到着した。10月とはいえ東京よりもやはり蒸し暑い。リサは無気力に、人の流れに身を任せて台湾に入国した。普通の旅行と違って、必要なものは最低限でいい。両替も必要ない。両親に申し訳ないという気持ちを持ったが、リサは何もしたくなかった。

 

「リサ!」

ぼんやりと荷物を載せたカートを押していると、大きな声で呼ばれた。懐かしい笑顔が目に飛び込んできた。小柄な母親が手を振りながら小走りにやって来る。「お母さん」その呟きが終わる前に、リサは聡子に抱きしめられていた。

「リサ、よく来たわね。元気そうで良かったわ。お父さんはね、今日から出張なの。迎えに来られないのを本当に残念がっていたわ」

「うん、でもこれからいつでも会えるし。お母さん、しばらくお世話になります」

聡子は「あらまあ」という顔をしてリサを見た。

聡子が電話の声を聞いて心配していたのより、リサはいくらか元気そうに見えた。でもその笑顔は弱々しかった。いつも限界まで頑張ってしまうリサを思うと、聡子の胸は痛んだ。「そんなに頑張らなくていいのよ」と、何度心の中で声をかけただろう。その声は愛娘に届かない。できることならば、この腕の中で幸せにしてあげたいという気持ちになるが、それが我が子の幸せではないことも、聡子は分かっていた。それならば、時が来るまで安心して引きこもれる場所を差し出すことしかできない。聡子はリサに対してありったけの愛を込めて微笑んだ。

 

リサは涙が出そうになった。聡子の愛情が胸にしみた。昔からそうなのだ。普段は素知らぬ顔で放任しているが、助けて欲しいと思っていると、過保護なまでに手を差し伸べてくれる。それが世間の常識から外れることであっても、聡子が躊躇することはない。それは大学で教鞭を執っている父、俊史も一緒だった。

 

「ちょっとここにいてちょうだい。お友達の息子さんが車を出してくれたのよ。向こうで待っているから、呼んでくるわね」

どんなときでもゆったりと行動する聡子が、珍しく機敏に動き回っている。そんな母親の背中を見送ってから、リサはスマホを手にすると画面を見つめた。

日本を発つ前に届いていたメールを読むかどうか迷っていた。きっと会社を辞めたのを知った同僚や友人のメールだろう。無理もない。体調不良で会社を数日休んだ後、病院の診断書を添えて辞表を提出して辞めたのだから。親切な同僚が私物を送ってくれたが、届いた荷物を開くことはなかった。届いたメールに返事をしないのは友情に反する。けれども、どうしても読む気持ちにはならなかった。

リサはしばらく画面を見つめてから、そっと指を滑らせて電源をオフにした。

 

 

「リサ、紹介するわね」

スマホをバックにしまいながら顔を上げたリサは、思わず目を見張った。

「こちらは藤原崇さんよ。崇さん、娘のリサです」

それは、昨日、あのワンピースと一緒に記憶に深く刻まれた「あの人」だった。

「また会いましたね。あなたは関根家のお嬢さんでしたか」

「あら、二人とも知り合い?」

聡子が、リサと崇の顔を交互に見ながらきょとんとしている。

「いえ、お母さん、昨日たまたま銀座でちょっとだけ話をしたの。まさか・・・」

何と言ったらいいかと迷っていたリサの後を、崇が引き受けてくれた。

「本当に。まさかここで再会するとは夢にも思いませんでした」

崇はリサに向かって微笑んでから、ことのいきさつを聡子に簡単に説明した。崇は「台湾にようこそ」と言って、リサに右手を差し出した。リサはためらいがちに右手を伸ばして「今日はありがとうございます」と囁いた。

「お二人をお茶に誘いたいところですが、リサさんはきっとお疲れでしょうね。真直ぐお送りしましょう」

当然のようにカートを押し、先を行く崇の背中を見ながら、リサはトランクの中にある、あのワンピースを思い出した。

 

崇に導かれて乗り込んだ車が高級車であることは、リサにも分かった。立ち居振る舞いといいこの車といい、崇は裕福な家庭に育ち、きっと本人もそれなりの収入を得る仕事をしているのだろう。

リサ自身も、どちらかと言えば裕福な家庭に育ったと自覚している。それでも両親と離れて暮らしたこの数年で、自分の収入で可能な生活というものを知った。良くも悪くも現実というものを肌で感じ取っていた。自分がどんなに頑張って働いても、どんなに会社の利益に貢献しても、所詮会社という組織の歯車の1つで、全てが平均的だった。

崇はきっと成功者に違いない。自分のように社会から落ちこぼれたりはしなかったのだろうと。そう思うと、崇に対して気持ちが萎縮した。

 

 

 空港から関根家のマンションまでは、それほど遠くない。聡子がリサに話かけているのを聞きながら、崇は車を走らせた。

崇は空港での再会を思い出して、口元がほころんだ。目を丸くしているリサの表情があまりにも可愛かったのだ。大人の女性に可愛いという表現を使ってはどうかと思うが、小さな子どもが驚いてぽかんとしているようだった。その顔を見たとき、失礼にならないように、笑い出すのを必死にこらえていたのだ。

それにしても、昨日の日本でのことは、本当に偶然だった。雑踏の中で、ショーウィンドウを見つめて立ち尽くすリサは、美しかった。一瞬人間に見えなかった。

声をかけた後、どこかで会ったことがあるように感じていたが、今朝、リサのことを聞くまで全く思い出せなかった。無理もないことで、一度写真を見せてもらったことがあるだけだったからだ。人間に戻ったリサは、自分の中に閉じこもってしまっている。崇は、その理由が知りたいと思った。

 

 崇がマンションの部屋の前まで荷物を運ぶと、リサは控えめに感謝の言葉を言った。それを申し訳なさそうな表情で聡子が補う。崇は聡子の気持ちを了解した意味も込めて、リサに言った。

「今度、母の家に来てください。きっと気に入ると思いますよ」

「そうね、あそこのお庭は素晴らしいもの。とっても気分が落ち着くのよ」

「お庭があるんですか?」

崇は答える代わりに微笑んだ。

「崇さん、あなたも帰国したばかりでお疲れなのに、ありがとうございました。今度、ご両親も一緒にお食事に行きましょう。よろしく伝えてね」

「ええ、分かりました、伝えます。では、今日はこれで」

崇が通路を歩き出してしばらくしてから、背中で戸が閉まる音がした。

崇は気持ちを切り替えた。今は集中しなければならない仕事がある。今日、取り組み始めた感触はあまり良くない。それは酷く骨の折れる作業になりそうだった。余計なことを考えていると、期限に間に合わないかもしれない。

崇は、リサのことを頭から締め出そうとした。

 

 

  

     

 

台湾に来てからずっと、リサは両親の人形になった。食事も外出も両親の勧めるものに素直に従った。父親の俊史も、日本で何があったのかは訊かなかった。

俊史は、朝が早く、リサが目を覚ます頃にはもう家を出ている。帰宅はあまり遅くならないが、好きなスコッチを飲みながら聡子の話に耳を傾けたり、読書をしたりするのが日課だった。

リサと会話するときの話題は、本や歴史の話しが多く、仕事の話はしなかった。話をすると言っても、リサは俊史の話にじっと耳を傾けるだけなので、会話にはなっていなかった。

リサは、父親が家で仕事の話題を持ち出したことがないのを、改めて不思議に思った。仕事で何もないわけがない。研究を続けることや、家族を養うことのプレッシャー、その全てをどうやって処理しているのだろう。父には、それがプレッシャーになっていないのか。今まで疑問にも思っていなかったが、いつか、そんな話を父から訊いてみたいと思った。

 

 

 

 

 

台湾に来てから10日程経った、ある朝。リサがいつものように朝食のテーブルに着くと、聡子がうれしそうにそわそわしていた。

「お母さん、今日は何かあるの?」

聡子は満面の笑みで答えた。

「藤原さんに誘われたのよ。11時頃、ツォンが、いえ崇さんが迎えに来てくださるって。リサも一緒よ」

聡子はリサのためにカップにコーヒーを注ごうとしたが、手を止めて付け加えるように言った。

「今日は少しお洒落してくれると嬉しいわ。部屋に飾ってあるあのワンピースなんていいんじゃない」

リサがトランクから真っ先に出して、ハンガーラックの一番目立つ場所に掛けたワンピース。リサが、今まで選んだことのない服。

リサはあのワンピースを着る機会を得て、素直に喜んだ。

「お母さん。あのね。あのワンピースに合うようなメイクの仕方がわからないの。手伝ってくれる?」

聡子はリサににっこり微笑んだ

 

 

藤原の家に到着して挨拶が終わると、二人の母親は、さっさとキッチンに入ってしまった。

初対面に等しい崇と二人きりにされたリサは、緊張するとお決まりのように感じる喉の詰まりを覚えた。崇に家の中を案内されても「ええ」とか「はい」としか言えない。以前ならば、調度品の美しさや建物の歴史を交えながら、気の利いた受け答えをしていただろうに。何よりも、訪れる場所の歴史は徹底的に調べるのが常だった。実際、秘書室に勤務していた頃は、そうやって海外からの来客をもてなしたものだった。

昔の自分を思い出し、今の不甲斐なさに悲しくなる。そして崇の気遣いを思うと、さらに申し訳ない気持ちで一杯になった。

 

 

自分の話を聞いているのかどうかも分からない。崇は、彼女が台湾に来て体調が改善しているようには思えなかった。聡子から母親のメイリンに電話があったのは聞いている。聡子も母親として精一杯の愛情を注いで、何とかしたいと思っている。その成果が少しも感じられず、言われるままに機械的に動くリサを見ていて、少し弱音を吐きたかったのだろう。

メイリンから崇に連絡が来たのは、日本から持ち帰った翻訳の仕事に煮詰まっているときだった。メイリンは、「リサの相手をすることができるか」とストレートに訊いてきた。

「僕が彼女の状態を改善できるかと言うなら、それは分からない。でも、何かきっかけになればと思う。それにずっと仕事漬けだったから、おしゃべりの相手がいるのは嬉しいしね」

それは本音だった。リサと何を話すのか想像もつかないが、とにかく話しはしたかった。

 

 家の中をざっと案内して庭に出ると、リサは低木の向こうに広がる景色に見入った。

今まで俯き加減だった背筋が、スッと伸びる。今日は髪を高い位置でまとめているが、その姿は紛れもなく銀座で声をかけたときのリサだった。淡いシンプルなあのワンピースがよく似合っている。哀しそうで、儚げで、芯が強そうで、温かくて、今は自分の中に閉じこもっている。閉じこもっている殻から、リサを引き出したいと思った。

自分が話しかけるだけで、美しいリサは雲に隠れてしまう。そう思うと、声をかけるのがためらわれた。

 

 

 

 

 

「ここからの景色が気に入った?」

リサはビクッと振り向いて「はい」と小さく答えた。崇はそれが悲しかった。けれども、そんな気持ちはおくびにも出さず、明るく話しかけた。

「それじゃ、僕達の分の食事はここに運んでもらうことにしよう。あ、食べたくないなんて言っちゃダメだよ。母の料理は食べる価値があるんだから。1日かけてゆっくり食べればいいんです。それに、母もリサさんのために作っているので」

リサは俯き加減に肯いた。

「人の好意は、君には重荷?」

崇は率直に訊いた。

「・・・ごめんなさい」

「謝る必要はないです。僕は君を責めたわけじゃないから。ただ、そんな風に見えたから」

崇はリサを労わるように言った。

 

 少し小高い場所にある崇の実家の庭からは、緑の葉に縁取られた街が見える。その見晴らしの良い庭には中国風の東屋があり、作り付けのベンチとテーブル、そして、崇が愛用していた折りたたみ式の椅子が二脚、準備されていた。

この庭は崇のテリトリーだ。家にいるときは、だいたいこの庭で過ごすことが多い。

 

 

リサは、この庭がとても気に入った。気持ちがよくて、とても落ち着く。けれど、崇との会話は気が重かった。話しかけられても、上手く会話を続けられない。会話が途切れがちになるのは自分が原因だと思うと、一緒にいることさえプレッシャーだった。リサは、崇と目が合わないようにしていた。

「そのワンピース、やっぱりよく似合っている」

崇に言われて、リサは自分の着ている服を見た。その服は優しくリサを包み込んでいる。指でスカートを摘んでそっと離すと、ふわりと揺れながら元の場所に戻っていく。リサは少し表情が和らいだ。

「思い切って買ってよかった。崇さんが、あの時声をかけてくれたから」

「僕は正直者だからね」

リサは少し緊張が解れた。

「汚してしまっては申し訳ないから」

そう言ってベンチにカバーをかけてから、リサに座るよう勧めた。リサが折りたたみ椅子を見ながら躊躇していると、崇は笑って答えた。

「あっちの椅子はお茶を飲みながら読書をするのはいいけれど、食事をするのには向いていなくて。食事はこっちの方が楽だよ」

崇は近くに控えていた女性に、中国語で何か伝えた。女性は親しげに何か答えると、家の中に入っていった。

「今、食事をこっちに運ぶように言ったから。お茶は母が食事に合わせて準備しているので、残念ながら選べないんですよ。我が家には昔から来客が多くて。だからお茶の種類も一流のレストラン並みに揃っているんです。幸か不幸か分からないけれど、中華料理に関して、僕は外食するくらいなら母の料理の方が美味しいわけ」

リサの隣に腰を下ろしながら、崇は茶目っ気たっぷりにウインクした。

そうしている間にも、二人の前にあるテーブルにはクロスがかけられ、セッティングが進んでいった。

 隣同士に座って、また緊張感が高まってきた。不安が全身に広がる。どんどん喉が苦しくなって、とうとう我慢できなくなった。

「・・・あの、崇さん。私、たぶん病気なんです。せっかくこうして一緒にいてくださっても、失礼な態度をとってしまうかも。私は、上手く話せなくて。・・・。どんどん苦しくなって」

喉に手を当てて、打ち明けるようにリサが呟いた。崇は、理解を示すように肯いた。

「大丈夫?僕に気をつかわなくていいよ。僕に打ち明けて、君の気持ちが少し楽になるなら、いくらでも聞くよ。そうだ、僕も先に打ち明けてしまおう。実は、君を迎えにいった翌日から昨夜まで、ずっと自分のマンションにこもって仕事漬けだったんだ。一言も話さずにね。だから今日はしゃべりたくてしょうがない。君をうんざりさせてしまうかもしれないから、適当に聞き流してくれて構わない。これでお互い様だね」

崇はリサの顔を覗き込んだ。

「あ、はい」

リサはもぞもぞと答えた。

 

 お茶のセットが運ばれ、火鉢と鉄瓶も東屋の近くに置かれた。崇はしばらく無言でお茶を入れた。一つ一つの動作は無駄が無く美しかった。小さな真っ白い中国茶用の茶碗と崇のすらっとした手の動きに、リサの目は釘付けになった。

「さあ、どうぞ」

崇に勧められて、リサはつられる様に小さな茶碗を口に運んだ。葉の香りがふわっと鼻から抜け、身体に染み込むように広がっていく。

「美味しい」

リサは思わず呟いた。

「食事の前のお茶は、胃にこれから食べ物が入るという知らせをするためなんだ。身体にいいんだよ」

そう言って崇もお茶を口に運んだ。

聡子もよく中国茶を入れてくれるが、それとは味も香りも全く違う。

リサは、小学生の頃から稽古に通っていた茶道のことを思い出した。仕事が忙しくなるに連れて足が遠のいたが、大学時代はサークル内やボランティアで先生を務めることもあった。中国茶と抹茶の違いはあるけれど、向かう気持ちは同じかもしれないと思った。

お茶を入れるときの崇は、お茶を入れるという動作にきちんと集中をしていた。

 

「君は一人っ子だよね。僕もそうなんだ。ただ子どもの頃の僕は、身体が弱かった。ちょっと無理をするとすぐ病院行き。今の僕を見て、そんな風には感じないだろう?」

リサは、自分の隣に座る崇の、程よく厚みのある身体を意識した。

「それもあって、両親は僕には期待できなかった。特に体力面でね。僕だって不本意だったさ。頑張ればきっとできるって思っても、頑張っちゃいけないんだからね。遊びに行きたくても、その後のことを考えると無茶ができなくて。ここで読書ばっかり」

崇は、言葉の端々に笑いを含んで話した。それは、自分の過去を懐かしんでいるのか、それとも思い通りにならなかった自分を思い出しているのか、リサには分からなかった。

 

リサが返事を返さなくても、崇はいっこうに気にする様子はなかった。一人で喋りながら、お茶を入れてくれる。リサが小さな茶碗を飲み干すと、すかさずまたお茶を満たす。リサは切りがないと思って飲み干すのを止めた。

それよりも、子どもの頃の崇が自分とは正反対に病弱だったことが意外だった。崇はスポーツ万能だろうと、リサは勝手に思っていたくらいだ。

「私は、崇さんとは全く逆です。病気で寝込んだ記憶がないし、学校は家族旅行で休むことはあっても病気で休んだことはほとんどなかったと思います」

「そう、羨ましいね。そして成績も良さそうだ」

しばらく黙っていたが、崇が返事を待っている気がして、曖昧に答えた。

「そうかもしれません。何となく答えが分かるんです」

「そして、他人が何を期待しているかも分かってしまう?」

リサはドキッとした。下を向いたまま黙り込む。

「それが辛い?」

「・・・たぶん」

崇はさり気ない調子で訊いてきたが、リサは激しく動揺した。

「それが辛いのか?」自分の中でこの問いがぐるぐる回る。思考と感情がぐじゃぐじゃに混乱し身体が固まる。不自然な沈黙が苦しくなってきたとき、最初の料理が運ばれて来た。食器を並べる音に紛れて、リサは小さなため息をついた。

 

 

崇には、リサが何に苦しんでいるのか分かってきた。けれど、それを乗り越えるのには、リサの意思が必要だ。リサはきっと自分の感情よりも、周りの期待に応えることを優先してきたのに違いない。抑え込まれた自分の本心が、そのことに耐えられなくなってしまった。だから、周りの期待に応えようとすると具合が悪くなり、身体が緊張して強ばる。そして結果的に期待に応えられないという反応を起こす。それがまたリサの罪悪感を呼び起こすという、悪循環を起こしているのだ。

崇は昔の親友を思い出した。彼もリサと同じだった。優しくて、真面目で、優秀だった。彼は両親の期待に応え続け、やがて自分を見失って死んでしまった。心の闇に落ちていく親友は、崇の前でだんだん表情をなくしていった。崇は彼の笑顔を取り戻したくて、どれだけ馬鹿なことをしたか。

やがて崇に対しても無反応になった彼に、もうどうすることもできなかった。そのことが、崇の心の中でいまだにくすぶっている。

今回も同じ結果になるのか。崇は無意識に頭を振った。そんなことはない。自分はあれから多くのことを学んだ。冷静に対処する方法も知っている。「僕は彼女の扉を叩き続けよう。彼女がそのことに気が付くまで、何度でも叩き続けよう。

 

 

 

     

 

それぞれの前に置かれた蒸篭の蓋を、崇は2つとも開けた。3種類の小籠包が2つずつ並んでいる。崇の声を締め出すために、リサは小籠包を食べることに意識を向けた。崇の言葉はBGMのように流れていった。

蓮華に小籠包を乗せて口に運ぶ。熱々の肉汁で、身体がビクッとした。

「大丈夫?火傷した?僕の説明を聞いていたかい?」

熱い肉汁が口の中で暴れているが、小籠包を口から出すのが恥ずかしくて、何とか飲み込もうとする。崇は心配そうに見つめた。リサは、上あごが完全に火傷したと思ってから、可笑しさがこみ上げてきた。今まで、聡子の作る料理を食べても、機械的に飲み込んでいた。けれども、この小籠包は火傷という現象を伴って、食べるということを実感させてくれた。食事を意識したのは、本当に久しぶりだった。

「火傷しちゃった」

リサは笑いながらそう言ったが、崇は笑わなかった。リサの笑いは一瞬にして消えた。崇は心配そうだった。

「大丈夫かい?水を飲む?」

リサはこっくりと肯いた。リサの素直な反応に、崇はようやく笑顔を見せた。

「ありがとう。君のおかげで、僕はこれが熱々だということが、よく分かったよ」

リサが二つ目を食べようとすると、「まだ熱いからね、気をつけて」と注意した。

 

「例えば。この小籠包を食べるとき、君がどれをどの順番に食べるのか、それは君が選ぶよね。僕や母は、今日のために準備した料理を、君が全部美味しく食べてくれたらそれは嬉しいけれど、現実的に全部食べるのは無理な量さ。君はもしかしたら本気で全部食べようとするかもしれないけれど、そんなことをしたら食べすぎで病院行きだ」

崇は、そこで言葉を切った。

「何がいいたいのか・・・」

リサは不安げに首をかしげた。

「つまり、今日は、僕らの期待に応えようとしなくていいってこと。君は自分が食べたいと思うものを、好きな分だけ食べればいい。食べたくないなら食べなくてもいい。と言いたいけれど、できれば食べて欲しいな。逆に食べたいけれどお腹が一杯になったら、持って帰ればいいし、またここに来ればいい。君がリラックスしてくれたら、それでいいんだ」

崇の言葉を聞いて、自分の身体がどう反応するのか。リサはじっと身構えた。けれども胸も喉も苦しくならなかった。それなら出来るかもしれないと思った。

「ありがとう。そうできるように頑張るわ」

ところが、リサの返事を聞くと崇は声を上げて笑った。

「ごめん、ごめん。頑張らなくていいから。僕が今言ったことは忘れて」

そしてさり気なくリサの左手に手を重ねた。

「僕は、今日、無駄なおしゃべりがしたいだけなんだ。君は返事なんかしなくていい。僕と一緒にここにいてくれれば、それだけで充分なんだ」

 

崇の喋り方は、ゆったりと落ち着いている。声のトーンも耳障りがいい。崇は、リサが返事をしなくても、いろいろなことを話してくれた。自分自身のこと、家族のこと、台湾のこと、仕事のこと。料理が運ばれてくるたびに一口ずつ取り分けてくれたが、もうそれ以上の手出しはしなかった。

「知っているかもしれないけれど、僕は父が日本人で、僕も日本国籍。我が家は、父の方針で家族での会話は日本語なんだ。学校も日本人学校に通っていたし。でもお手伝いさん達とは中国語。つまり台湾語や中国語。中国語と言っても大陸の言葉とちょっと違うんだよね。母も日本語は話すけれど、台湾生まれだから父がいない時はこっちの言葉。そして高校はアメリカンスクールだから英語。おかげで、僕は通訳と翻訳の仕事が成り立つわけ。でも日本語が一番難しいかな。同じこと言っていても使う言葉が違うとニュアンスも違う。 『僕・俺・わし・うち・私・あたい』とかね。どんな言葉を使うかで、人間性も表現するし、それに言葉自体がどんどん変化しているでしょう。日本だと古典文学はもう外国語レベルの違いがあるけど、他の国の言葉は、多少使われなくなった単語とか言い回しはあるけれど、普通に読んで理解できるんだよ」

リサは、自分も好きな読書に想いを馳せた。体調が悪くなって読書からも遠のいてしまったけれど、子どもの頃から本を読むのが大好きだった。特に、古典に関しては思い入れの強い本がある。読みかけて、ずっと手に取れない『源氏物語』を思い出していた。

「何か考えている?訊いてもいいかな」

本のことを考えていたリサは、完全に警戒を解いていた。

「確かに、日本の古典は外国語みたいだって。私は源氏物語が好きで、原文を少しずつ読み進めていたけれど、それは現代語訳やいろいろな解説の本を読んでいるから意味が分かるんですよね」

 

崇は驚いた。まさかこんなところでリサの琴線に触れる話題があるとは思いもしなかった。

「源氏物語か、凄いね。原文を読んでいるんだね?」

崇の心は躍った。崇の一言に、今度はリサが驚いていた。

「もしかして、読んだことがありますか?」

崇は肯いた。

「さっきも言ったけど、この庭で読書三昧の生活は高校に入るまで続いたんだ。いろんな本を読み漁って、無謀にも、父の国の代表作を読んでやろうと思ったわけ。現代作家の本はいくつか読んでいたからね。古典文学の最高傑作に挑戦したんだ」

「どこまで読みましたか?」

リサの反応は、今までとまったく違った。崇は大げさに肩を落として答えた。

「原文を読むために辞書も用意して頑張った。『葵』は、どうしても読みたかったから、そこまでは必死にね。昔、こっちで能の公演を観たんだ。親に連れられていったんだけど、その時の演目が『葵上』だった。とても印象的で今でも覚えている。何ていうのか、表現は形式的なんだけど、そこから伝わる感情というのかな、とにかく奥行きが深くてすごく感動したんだ。だからどうしても『葵』までは読みたかった」

崇は顔を上げて、遠い日を思い出した。そして、ふと我に返って、唐突にリサに話を振った。

「ところで、リサさんは今どこを読んでいるの?」

リサは首を横に振った。

「体調が悪くなってから、本も読めなくて。『須磨』の途中で止まったままです」

 

美しい四季折々の襲色目の十二単。御簾を隔てた男女の駆け引きや歌のやり取り。琴や琵琶の合奏。源氏の青海波。自分の中で繰り広げられる美しい場面。現代と変わらない恋の悩み。本を読みながらどれだけうっとりしただろう。また読みたい。リサがそんな想いに気持ちを漂わせていたら、崇の声が聞こえた。

「じゃあ、読むきっかけは何?今の日本人は勉強でもなければ、古典を読まないだろう。何で読もうと思ったの?」

きっかけ?

リサは遠い昔を思い出した。そうだ、アダムさんだ。彼はイギリス紳士で、まだ中学生のリサのことも、小さなレディと言って可愛がってくれた。そして彼が私に源氏物語の素晴らしさを教えてくれた。リサは、大人になったらアダムさんと再会して、源氏物語について語り合いたいと思った。だから日本に帰国すると、手当たり次第に読んだ。そして、すっかりこの世界に魅了されてしまった。最後はやっぱり原文で読破したいと思った。

「私、中学生のときにシンガポールに住んでいたんです。そのとき、私を可愛がってくれたイギリス人の男性が、源氏物語を読んで日本人の感性の豊かさに感動したと言う話をしてくれたんです。それで日本に帰ってから読んだら、どんどん面白くなって」

喉が渇いてお茶に手を伸ばす。茶碗が空になると崇がそっとお茶を注ぎ足したが、リサは気がつかなかった。

「いろんな現代語訳を読みました。でも私はどちらかと言うと、原文に近い訳が好きです。最後にオリジナルをじっくり味わいたいと思って、挑戦していたんです。原文は主語や余計な説明が省略されているけれど、その分とても洗練されていて、すごく面白いと思いました」

そして散々迷った挙句、トランクの隅に忍び込ませてきた、読みかけの単行本に気持ちが移った。明日は本を手に取ってみたいと思った。

 

 

 

 

 

 源氏物語について語るリサは、まるで墨絵が色彩画に変わったようだった。崇は少し開いたリサの心の扉を、閉めさせたくはなかった。

「僕も、またチャレンジしようかな。今度は挫折しそうになったら君に泣きつけるし」

どう?と目で問いかける崇に、リサは肯いた。

リサは肯いたけれど、どこかに気持ちが漂っているようだった。古典の世界か、はたまたシンガポール時代か、それは分からない。崇は、自分の言葉がどこまで届いているのか、少し不安に感じた。不安は感じても焦ってはだめだ、言いなりになってもだめだ、そう自分に言い聞かせていた。これから崇が始めようとしていることは、リサにとって苦しいことかもしれない。でも、自分と立ち向かう勇気を持って欲しい。そのきっかけになるかもしれない一言を、崇はリサに投げかけた。

「あのさ、リサさんのことを『リー』と呼んでもいいかな。せっかく親しくなったし、これからも一緒に本を読んだり話をしたりしたい。外国暮らしの経験があるならファーストネームで呼び合うのも普通だろ?」

崇の願いが届いたのか、リサは驚いた顔をした。

「リサじゃなくて、リー?」

その問いかけに崇はニヤッと笑った。

「僕は天邪鬼だから、みんなと同じは嫌なんだ。他の人は、みんな君をリサと呼ぶだろう?だから僕は『リー』と呼びたい」

リサは崇を見たまま、また動かなくなってしまった。崇は「早まったか」と臍を噛んだが、リサがどんな反応を示すのか見届けるまでは迂闊にフォローもできない。時間がかかってもいいから、リサが心を閉ざさずにいてくれることを祈った。

リサが一言も声を発しない代わりに、林の中で鳥達がさえずっている。高らかに、楽しげに。風に、木々の葉がそよぐ意外、全てが静止している。もしかしたらリサは人形かもしれないと思いかけたとき、リサの声がした。

「・・・あの」

リサは顔を上げて遠くの景色を見ていた。

「さっきの崇さんの言葉は、私には恋人への台詞のように聞こえます。崇さんは軽い気持ちで言ったのだと思います。私達は、今日初めて会話をしたばかりです。リーと呼ばれるのはちょっと・・・」

とにかく、リサが崇の言葉を真剣に捉えていてくれたことに感謝した。

「確かに、僕達は今日初めて長い時間を共に過ごしている。そして君と一緒にいて、僕はとても居心地がいい。これからも会いたいと思っている。付け加えるなら、僕は結婚もしていなければ恋人もいない。本当だよ」

リサに自分の言葉が伝わるように願いながら、最後の一言に力を入れた。

「今の私は最低なんです。こんな私なんて・・・」

リサが呟いた一言に、崇は珍しく眉間に皺を寄せた。

「自分を卑下することで、僕を侮辱したいのかい?」

ハッとして崇を見たリサに、崇は真剣な表情で向き合った。リサは不安げに崇を見た。それがとても痛々しくて、あと少しでリサに手をかけそうになった。

「僕はこの場所や病院に縛られていたとき、自分の存在や生きる意味を考えた。自分の苦しみや悲しみとかそういう感情についても考えた。台湾で生まれ育ったけれど日本国籍だし、そういう自分のルーツについても考えた。本当に、考えるしかやることがなかったんだ。だから、人と会うときは、その人の本質に目を向けるクセがついているんだよ。特にプライベートで会う人はね。

人は誰にでも良いときと悪いときがある。それはいろいろな原因があると思う。でもその奥にあるその人の本質は、簡単に変わるものじゃない。君は今の自分を最低だと言うけれど、それが君の全てじゃない。一面だよ。僕にだって最低な一面はある。自覚があるから、それが頭をもたげてくると自分なりに対処しているけれど」

「一面?」

リサが反応した。

「そう。今の君には自分の全てに思えるかもしれないけれど、それは自分の一部分に君がフォーカスしているからだ。もちろんそうなる原因があったんだと思うよ。僕には分からないけれど。でも一歩離れて客観的に見れば、君は自分の特殊な一面にだけフォーカスしていると思うよ」

崇はそれ以上の言葉を言おうとして止めた。まだ早い。それは今ここで話すことではないと、直感的に思った。

リサにお茶を勧めながら間合いを取って、さり気なく元の話題を繰り返した。

「君の言うとおり、僕達がまともに会話したのは今日が初めてだ。これからの二人の未来を予言することはできない。でも想像することはできる。僕の想像の中の君は、僕の隣で楽しそうに笑ったり、本を読んだりしている。そして、僕は君のことを『リー』と呼んでいる。

でも、君が嫌なら無理強いはしない。今まで通り『君』とか『リサさん』で我慢するよ。少し考えてくれないか?」

崇はわざとリサの負担になるような言葉を選んだ。それに対してリサがどう感じるのか、それが知りたかった。

答えを聞くまでに、また今回もたっぷりと時間がかかったが、崇には、そんなことはどうでもいいことだった。リサが少しずつ自分と対話をしていることが重要だった。

「分かりました。リーでいいです」

リサの決断に対して、崇は笑顔とともに「リー、ありがとう」と言った。そしてリサの様子を確認しながら、少し冷めかけた料理に手を伸ばした。

 

リサは、『リー』と呼ばれたことで居心地が悪いのか、所在無げに両手を膝の上に乗せていた。リサの前には、手の付けられていない小皿が並んでいる。

リサの気持ちが少し落ち着いたのを見計らって、崇は次の爆弾を落とした。

「リー、僕はすごく嬉しいよ。でも、もう一つだけお願いがある。僕のことを『タカシ』と呼んで欲しい。こっちではみんな僕をツォンて呼ぶ。聡子だって普段はツォンて呼ぶんだ。だからリーには『タカシ』って呼ばれたい。『さん』とか付けないで」

今度のリサは、さっき以上に目を見開いて驚いていた。

「そんな」

口元を手で隠して、あっけに取られている。崇は新しいお茶を茶碗に注いだ。

「ほら、また新しいお茶がきたよ。これを飲んで落ち着いたら」

リサは目の前に出されたお茶を見たが、手もつけずに崇に視線を戻した。

「なぜ崇さんではいけないのですか?」

想定内の返答だった。

「それは二人が親しくなったからだよ。リーは今、日本語で会話をしているから『さん』を付けることが自然だと思っているだろうけど、もし英語で会話をしていたら、紹介された直後から敬称はつけないだろう。身分とか年齢差があったとしても相手が○○と呼んでくれと言ったら、それに従うだろう。シンガポールにいたとき違ったかい?僕が言っていることは、それと同じだよ。

これから一緒に過ごす時間が増えるのに、『さん』付けで呼ばれたらちょっと寂しい。僕の言っていることは間違っているかい?」

 

確かに崇の言っていることは間違っていない。それでも、リサは気持ちに抵抗があった。たかが『さん』という一言だけれど、崇の要望をこれ以上受け入れたら、何か一線を越えてしまいそうで怖かった。崇だろうと誰だろうと、これ以上自分の心に入ってこられるのは嫌だった。

 

「・・・怖いです」

リサは本当に怯えているように見えた。けれども崇はこの一言を待っていた。たっぷり時間を取って自分を落ち着かせる。焦りは厳禁だ。

「リーが感じているのは、どんな恐怖?何が怖い?それとも僕の存在が怖いのかな」

リサが身じろぎもせず黙っているのを、崇はじっと待った。リサは今までよりも、より一掃小さな声で言った。

「崇さんが何で私に親しくしようとしているのか分からない・・いえ、分かっていて、自分の気持ちが振り回されてしまいそうで怖い」

「それは、僕を信頼できないってこと?」

「いいえ、そうじゃない。そうじゃなくて・・・」

「僕が、混乱しているリーに付け入って、都合のいいように利用するってこと?」

「そうじゃないの。私は・・」

崇はどんどんリサを追い詰めていった。

「僕が、リーを好きなように扱って、当然のように感謝もせず、それどころか更に酷い要求を突きつけてくるのが怖いの?」

 

「そうじゃない」

崇の畳み掛けるような言葉に、リサは発作を起こしたように息が苦しくなった。喉元に手を当てる。身体が硬直する。

リサは気がついた。自分が苦しいと感じていたのは、他人の期待に応えることではなかった。その奥に渦巻いている自分の中の不満の塊を見たくなかったのだ。「何で私ばっかり」とか「こんなにやってあげたのに」という自分が今まで飲み込んできた言葉が、まるでマグマのようにどろどろと渦を巻き出口を探していた。それが吹き出てしまったら、私は私でなくなってしまう。いつもしっかりしていて、常識的で、優しくて、親切で、公正なリサではなくなってしまう。そうなったら、自分は何を心の拠所にすればいいのか分からない。それが恐ろしいのだ。崇が自分に訊いてくる質問は、このマグマを直撃してくる。

リサは必死に堪えようとした。けれども、もうどうしようもなくなってしまった。

「いやー、もう止めて!」

リサはありったけの力で叫んだ。そして、ただひたすら「いやー」を繰り返しながら泣き叫んだ。全身が震える。リサは急に強い力に抱え込まれた。その力に抵抗するように身を引くが、更に強い力で引き寄せられてしまった。それでもリサは、必死になって崇の腕から逃れようともがいた。

「リー、吐き出して。今まで言えずにいた言葉を吐き出すんだ」

リサは激しく頭を振って嫌がった。そんなこと出来ない!出来ない!これ以上私に関わらないで!リサは心の中で叫んだ。

 

聡子とメイリン姿が、崇の視界に入った。そちらにチラッと視線を送って近寄らないようにと目配せした。

リサは渾身の力で抵抗している。ここでリサを離したら、永久に自分の殻の中から出てこない。それはだけはダメだ。どうしてもリサの抵抗に屈するわけにはいかない。リサを離さないために、崇も必死で腕に力を込めた。そして届いているのか分からないが、ひたすら「大丈夫」と「出来るよ」を繰り返した。

永遠に続くかと思われたが、リサがとうとう抵抗を止めた。リサは、崇に身体を預けたまま声を上げて泣いた。崇は注意深く腕の力を緩めて、リサの耳に向かって言った。

「僕の声が聞こえる?」

リサは泣きながらかすかに肯いた。

「僕の言う言葉を繰り返して言って」

リサはまた肯いた。

「ばかやろー」

リサは泣きながら「ばかやろー」と言った。崇は少しずつ声を大きくしながら、何度も繰り返した。リサは素直に従った。

「当てにするなー」

崇が言葉を変えると、今度もリサは従った。ところが崇が次の言葉を言おうとしたとき、リサが叫んだ。

「もういやだー」

崇の腕の中から精一杯顔を上げて、ありったけの声で、自分の言葉で罵った。リサは怒っていた。さっきまで冷たかった身体が怒りでどんどん熱くなる。崇は自分の腕の中から顔だけだして、全身で罵り声を上げているリサが可愛かった。愛おしかった。このままずっと抱いていたかった。

 

 罵り声はだんだん小さくなり、やがてリサは静かになった。まるで電池の切れた玩具のように、動かなくなった。崇の耳に、寝息が聞こえた。リサはすっかり寝入ってしまっていた。

崇は、クッションやブランケットを持ってきてもらい、リサが身体を伸ばせるように移動し、自分の体勢を整えた。リサのメイクは涙で殆ど剥げている。崇はそれでも充分美しいと思った。

 

 

 

 

 

リサはふと目が覚めた。崇の声が聞こえる。 

「おはよう。リー」

その声が心地良い。

「崇」

「そうだよ。僕だよ」

身体は少し疲労していたが、何か空っぽになった気がして軽い。

「蒸しタオルを持ってきてもらったから、これで顔を拭くとさっぱりするよ」

リサはタオルを受け取って、顔に蒸しタオルをのせた。程よい蒸気が顔を包み込んで、汗と涙でべとついた顔をさっぱりさせた。すると頭がはっきりと動き出した。

リサは崇にもたれたままだった。思わず急いで姿勢を正すと、靴を履いていない。耳まで真っ赤になったのが、自分でも分かった。

「あの、私メイクを直したい。場所を教えてください」

崇はクスッと笑った。目覚めたリサは、雲から抜け出たようにハッキリしていた。

「連れていってあげる」

靴を履いていないリサを抱き上げると、崇はそのままバスルームまで運んでいった。

 

 

リサをバスルームまで送り届けると、崇はキッチンに行った。崇に言われて、聡子がリサのバッグを持ってバスルームに行ってしまうと、メイリンと目が合った。

「どう?」

崇は「まあまあじゃない」と曖昧に答えた。とても簡単には説明できない。

「取り敢えず、今日の山は越えたかな」

二人は、図らずも一歩踏み出した。崇にとっては、リサが自分を取り戻すまで安定的な愛情で支え続けるという、重大な一歩でもあった。軽い恋の話ではない。安易な気持ちで、あれこれと話す気にはならなかった。

「あのさ、二人の間にあったことは、今日もこれからも詳細に報告するつもりはないから。僕に訊いても無駄だよ」

「そう、これからも会うつもりなのね」

「何か問題?」

「いいえ、しっかり支えてあげなさい。ただし、依存させるような支え方はだめよ。お互いが自分の足でしっかり自立できるようにね」

メイリンに一番痛いところを突かれて、崇は苦笑した。リサとの関係で、崇が一番不安を感じている部分だ。ミイラ取りがミイラになりかねない。

メイリンには敵わないと思った。もう充分大人になって両親とも対等のつもりでいたが、今の態度は子どものままじゃないか。崇はメイリンに近寄り軽くハグした。

「ごめん」

メイリンは、自分よりずい分大きくなった息子の背中を、昔と同じようにぽんぽんと叩いた。それは子ども頃から「了解」のサインだった。

「白状すれば、僕はリサが好きだよ。だから、できるだけのことをしたいと思う」

息子の堂々とした態度に、メイリンは目を細めた。一人の人間として尊敬できる人物になってくれた。それは親の力ではなく、崇が自分で勝ち取ったものだ。親子という絆で、これからもこの息子と関わっていけることを、メイリンは心の中で感謝した。

「ツォン、覚えていてね。私はあなたを誇りに思うわ」

崇は素直に笑った。

「実は、僕達、あんまり食べてないんだ。残っているものを少し暖め直して出してくれるかな。2、3品でいいから」

「温かい麺を用意しているわ。聡子が戻ったら、お庭のほうに持っていくから。それでいい」

崇は「ありがとう」と言った。

 

 

 身支度を整えてリサが庭に戻ろうとしたら、置石の上に靴がきちんと並べられていた。

庭に降りる前に、リサはそこから見える全を感じ取ろうとした。風が通り過ぎる感覚、鳥の声、葉の青々とした香り、太陽の眩しさ。それらが、さっきまでと明らかに違う。何でもないのに、自然と微笑んでしまう。

庭の風景を見渡しながら、目は自然と崇を探した。崇は庭の中央に並んだ折りたたみ椅子に身体をあずけて、ぼんやりと景色を眺めている。ゆったりと寛いだ姿。いったい彼は私に何をしたのか。さっきは、今まで使ったことのないような酷い言葉をたくさん言った。言い出すときは怖かったけれど、途中から止められなくなった。でもどんなに酷いことを言っても、「それでいいよ」と言って抱きしめた腕を離さなかった。彼の胸はとても温かかった。そして、自分の胸が同じように温かくなって軽くなっていく感じがした。

 

 

使用人とは違う静かな気配に振り向くと、リサが椅子の傍らに立っていた。

「リー」

崇はサッと立ち上がって、リサと向かい合った。頬に赤みが増して、表情も今までとぜんぜん違う。目が少し赤いのが、さっき自分の腕の中で泣いていたことを思い出させた。

「綺麗になったね」

咄嗟にでた言葉があまりにも在り来りで、崇は自分の日本語の語彙力のなさにがっかりした。

「ええ、母がとても驚いていました」

リサは微笑みながら、素直に答えた。

「ありがとう、崇さん」

「崇だよ」

崇はリサの後れ毛を直しながら言った。

 

 

メイリンが用意してくれた麺は、白湯スープに細く裂いた鶏のささ身と青菜とゆで卵がトッピングされていた。リサは匂いにつられてお腹が空いたように感じた。

「何だかお腹が空いた気がする。変ね、さっきたくさん食べたのに」

リサが照れ笑いをすると、崇はちょっと眉を上げて言った。

「僕の知る限り、リーは最初の小籠包の後ほとんど食べていなかった。お腹が空いて当然さ」

二人はベンチに並んで温かい麺を啜った。優しい味が身体の隅々まで行き渡るような気がした。リサは、自然と顔がほころんでしまうのが不思議だった。

 

「次に会う約束だけど・・・」

「会う約束?」

リサは驚いたように崇を見た。「そうだよ」と言いながら、崇は考え込んでいた。

「実はね、この間日本にいたのは翻訳の仕事の関係だったんだ。それが結構大変で。とりあえず20日の朝までに仕上げなくちゃならない」

そう言うと、ため息をついた。

「20日でもいいかな?」

「でも、その日が締め切りなんでしょう?」

「締め切りは19日だけど、20日に担当者が出勤するまでにデータを送れればいいんだ。彼が数時間で内容を全部確認して連絡してくるとは思えない。だから20日なら一日ゆっくりできると思う」

「きっと疲れているわ」

「そうだよ。だからリーに会って元気になるんじゃないか」

それがお世辞だとしてもリサは嬉しかった。醜態を晒したばかりなのに、崇は私に会いたいと言ってくれる。

「私、崇に元気をあげられるかしら

崇はリサの手の上に自分の手を重ねた。

大丈夫。リーと一緒に同じ景色を見て、同じ空気を吸って、同じ時間を過ごすことで僕は元気になれる。今日、それは証明されたからね」

リサは真面目な顔で崇に訊いた。

「私がさっきみたいに急に暴れたら?」

崇は思わず笑ってしまった。

「そんなラッキーなシチュエーション。迷わず抱きしめるよ。さっきみたいに、リーが眠りに落ちるまで抱きしめて、その後は寝顔を楽しむ」

リサはみるみる赤くなった。

「そうなの。私は大丈夫よ。特に予定も無いし」

ワンピースの皺を気にする振りをして早口に言った。

 

人前で取り乱すことが気まずい雰囲気を作ると思い込んでいるリサを、崇は可愛いと思った。もちろん全てが許されるわけではない。それを駆け引きに使う者もいる。それは論外だ。自制の効きすぎるリサだからこそ許せるのだ。

世に出回っている情報誌が、異性の気を引くためのくだらないテクニックを特集している。そういう情報の与える弊害が、彼女のように全く当てはまらないような人をも枠にはめている。仕事上、そういうマスコミにも関わっていることに違和感があるが、それは裕福な家庭に育ち仕事にも恵まれている自分が、上から目線で感じていることなのか。それとも全く次元の違う話なのか。なかなか自分が納得する答えが見つからない。

「どうしたの?」

自分を見たまま一言も喋らない崇に、リサは声をかけた。

「うん、ちょっと考えていたんだ。この世界でお金を稼ぐことと、自分の心が望む生活とがどうしてもしっくりこない。その理由が分かれば、もっと自由になれると思うのに」

それに対する答えを見出すことが出来ず、リサは黙った。

 

 

家の奥から、華やかな笑い声とともに食器が触れ合う音が聞こえてきた。

「ツォン、私達も一緒にデザートをいただこうと思って来たのよ。いいかしら?」

崇は大げさに椅子から立ち上がり、仰々しくお辞儀をする。

「これは、これは、奥様方。ようこそ私のスペースへ。どうぞごゆっくりお寛ぎください」

メイリンはスカートの裾をつまむと軽く膝を折って、崇に応えた。

「ところで、今日のデザートは何?まさかパイナップルケーキじゃないよね」

「あら、私たちはお客様ではないかしら?お客様にデザートを訊くなんて、可笑しいわね」

そう言って隣にいた聡子に笑ってみせた。

「見れば分かるでしょう、オーギョーチよ。たまにしか帰ってこない息子に、嫌いなものを作って迎えるなんて、そんな嫌な母親じゃありません」

メイリンは気の利いた台詞で切り替えした。

「ああ、お母さん!大好きだ」

崇は多少芝居がかった口調で、メイリンに抱きついた。メイリンは「もう、ふざけるのは止めなさい」と追い払うしぐさをしたので、その場にいた全員が笑い声を上げた。振り向くとリサが笑っている。崇はそれだけで幸せな気分になった。そして相当重症だなと自分に向かって言った。

 

「オーギョーチは大好物なんだ。昔、食べ過ぎて怒られたことがある」

小さなテーブルには、ガラスの器に盛られたオーギョーチと新しいお茶が用意されていた。

「そうよ。あの時はお客様のためにたくさん作っておいたのに、知らない間にツォンが半分ぐらい食べてしまったのよ。お客様にお出しする分が少しになってしまって。本当に腹が立ったんだから」

見ると、崇はガラスの器を幸せそうに抱えていた。そんな姿を見て、リサはまた笑った。

「子どもみたい」

デザートには手をつけずに、リサは崇を見ていた。

「リーも早く食べなよ。美味しいんだから」

リサはゆっくり器に手を伸ばしながら呟いた。

「さっきの崇とは別人みたい」

崇の動きが止まって、顔を上げた。

「当たり前だよ、リー。美味しいものを食べるときは、食べることに集中しなくちゃ」

それからリサにウィンクした。

「僕は分かりやすいんだ。もし一緒に食べているときに、僕の意識が急にどこかに行ってしまった様に感じたら、それは僕がその料理を味わっているときだから」

 よく冷えた器に金色のゼリーがきらきらと光っていた。スプーンですくって口に入れると、ほんのり甘くて、レモンの酸味のさわやかなゼリーが口の中で溶けていった。日本の中華の店でメニューにあるのは見たことがあるが、食べたことはなかった。

「美味しい・・・」

リサは幸せな気持ちで、金色の透き通った食べ物を見つめた。

「リサ、レシピを聡子に渡したから、家で一緒に作りなさい」

優しい声音。

「はい」

リサは素直に肯いた。

「私のことは、メイリンと呼んでね。聡子もそう呼んでいるのよ。あなたもね」

背筋のピンと伸びたメイリンは美しかった。何にも動じない強さを持っていた。聡子と並んで座る二人は、仲の良い姉妹のように見える。聡子も本当に楽しそうに笑っていた。

 

 

 夕方、父の俊史用のおかずをたっぷり貰って、リサと聡子は帰宅した。朝出かけたときの重苦しい気分とは反対に、家に戻ったリサはあまり疲れを感じていなかった。崇の匂いを思い出して、不意に動機が激しくなる。

そのまま直ぐにシャワーを浴びると、聡子が買い揃えてくれていたパステルグリーンの部屋着に着替えた。何もかもが新鮮に見えた。

バッグを持って自分の部屋に入ると、そこには今朝と同じ重苦しい空気が漂っていた。リサは急いで窓を開けて空気を入れ替えた。目に付くごみを綺麗に片付け、聡子が気に入っているアロマオイルを炊く。するとハンガーラックの服が目に付いた。どれもこれも気分が暗くなりそうな服ばかりだった。リサは衝動的にゴミ袋を広げると、片端から服を突っ込んだ。

残ったのは今日着ていたワンピースとジーンズ、数枚のTシャツだけだった。部屋に置いておくのが嫌で、キッチンにいる聡子のところに持っていくと、聡子は目を回した。

「あらまあ、どうしたの?」

「うん、もう着たくない服だから捨てることにしたの。ほとんど服が無くなっちゃった」

「そうなの。じゃあ好きな服を買えばいいわ。ステキな服を」

聡子はそう言ってにっこり笑った。

「うん、ありがとうお母さん」

これからはきれいな色の服を買おうと、リサは思った。

 

 

 

 

 

 玄関のベルが鳴る。俊史が帰るにはまだ早い時間だ。聡子が扉を開ける音がして、続けてパタパタと慌てて戻ってくる音がする。

「リサ、ツォンよ。どうしても渡したいものがあるんですって。待っていただいているから、服を着替えてきなさい」

服はもうジーンズとTシャツしかない。リサは急いで着替えると、鏡を覗いてグロスを唇に塗った。

 崇はドアの外で待っていた。リサの全身に素早く目を走らせると、すまなそうな顔をした。

「ゴメン。もう寛いでいたんだね。髪がまだ濡れている」

リサは崇が髪に触れたので、ドキッとした。

「これを渡さないと、仕事に集中出来そうになくて・・・」

崇から手渡された小さな袋にはスマホが入っていた。

「日本で使っているのをこっちで使うと高いし。しばらく台湾で暮らすならあった方が便利だし。本当は僕自身のためなんだけど・・・」

そこまで言って、崇はためらった。それから不自然に頭を掻いたり、俯いたりしながら言った。

「本当は、仕事に行き詰ったときに、リーと少し話しをして気分転換できたらいいなと思ったんだ。もしかしたら君の負担になるかと思って迷ったんだけど、どうしても直接話せる手段が欲しくて・・・」

そんな崇にリサは手をかけた。

「ありがとう。とても嬉しい」

目の前にいるリサは、化粧も落としてとても無防備に見えた。ほんの数時間前にメイリンに言った言葉なんて、もうずっと昔の、過去のもののように感じた。この短時間に、リサに対する愛情は歯止めが効かないほど膨れ上がっている。思考とか理性とかを吹っ飛ばして、心が暴走している。

「良かった!ありがとう、リー。使い方が説明できるから同じ機種にしたよ。それに僕の電話番号とアドレスは登録しておいた」

崇は基本的な使い方を説明してくれた。

それからチラッと時計を見ると、残念そうな顔をして「もう行かなくちゃ」と声を落とした。そして、リサの身体に腕を回してそっと抱きしめながら「エネルギーチャージ」と呟いた。

 

 

 リサは、自分がずい分元気になってきたと感じていた。それは崇のおかげだと思っている。

崇はいつも朝の7時に電話をかけてきた。訊くと遅くても十二時には寝て、朝5時に起きているらしい。最低5時間の睡眠を死守しないと仕事の効率が悪くなるだけでなく、病院のベッドが近づくと漏らしていた。

電話はいつも5分ほどで終わってしまう。もっと話していたいと思うけれど、それは崇の仕事の邪魔になる。崇が「じゃあ」と言うと、リサはいつもさり気なく「さよなら」と言って電話を切っていた。

 

 崇と会う約束の日を密かに楽しみにしながら、リサはショッピングに出かけるようになった。ほとんどの服を捨ててしまったのだから、服を買わないと崇と会うときに着ていくものがない。どんなところに行くのか、何をするのか、様々なシチュエーションを想像しながら服を選んだ。色やデザインだけでなく着心地も確かめて、気に入ったものだけを少しずつ買い揃えた。

一人でショッピングに出かける勇気はなかったので、聡子にいつも付き合ってもらっていた。日本と同じようなICカードで電車に乗ったり、聞きなれない言葉に耳を傾けたりするのは楽しかった。俊史が帰宅するのを待って、近くの夜市に出かけたりした。所々で立ち寄っては味見をしながら買い物を楽しむ。中国語が堪能な俊史のおかげで、リサと聡子は両手一杯の品物を獲得した。夜市で売られている服はカラフルなものが多くて、見ているだけでも楽しくなる。

俊史も聡子も口には出さなかったが、リサが生き生きとショッピングを楽しむ姿を、心から喜んでいた。