心のなかに眠る人③

崇は、昼過ぎに空港で待機していた。柏木優一の到着を待っていたのだ。柏木は日本だけでなくアジアでも人気の高い歌手で、台湾でもその人気は高かった。2年前に訪台したときに、たまたま雑誌の取材で通訳をして柏木に気に入られたのだ。そのときに、次回は滞在中の通訳を全部頼みたいと言った。崇はリップサービスだと思っていたが、本当に依頼がきたので、驚いたのと同時に彼の人となりを知った気がした。彼の言動はユニークだったりするが、誠実だ。だから40歳を越えても人気が衰えないのだ。リサと会えないことを除けば、柏木との仕事は楽しみだった。

 

 柏木が入国すると、直ぐに崇は帯同した。柏木は崇を見つけるなり「ツォン、今回は1週間びっちり頼む」と、手を差し出した。崇も「こちらこそベストを尽くします」と言って硬い握手をした。そのまま空港にセッティングされたメディア向けの会場に移動する。ここで30分のインタビューだ。今回は、週末に2夜連続で行われるコンサートがメインになる。インタビューはお決まりの質問と、コンサートへの意気込みを伝えることで時間切れとなった。空港からいったん滞在先のホテルに入り、今度は雑誌の取材と、中継でテレビ番組の生出演が待っている。付け加えるなら、コンサートのDVDの特典映像として台湾滞在中のドキュメンタリーも張り付いている。普通なら嫌気がさすような環境だが、柏木は気にするようすもなく、撮影の合間に崇に冗談を言ったりしていた。

 

 夜の10時近くなって、やっと夕食になった。打ち合わせも兼ねているディナーだ。柏木の支度が整うのを待つ間に、崇はやっとリサに電話をかけた。

リサは、柏木の通訳で時々崇が映るのを見て、嬉しいと言っていた。今日は一日テレビのチャンネルをあちこち変えて追いかけていたと言った。リサの声を聞いていると、昨日の駐車場での姿が、鮮明に思い出された。

 

柏木の姿が目に入ったので、崇は急いで電話を切った。

「ツォン、待たせたね」

柏木に肩を叩かれて、崇は気持ちを仕事モードに切り替えた。

柏木は持ち前の大らかさで、和やかなディナーを演出した。柏木自身も楽しんでいるのがよく分かった。崇は通訳しながら、常に人に注目され囲まれている状況でどうしてこんなにも自然体でいられるのか、一度質問してみたいと思った。柏木は状況に応じて、的確に自分の一面を見せる。それは天性のものなのだろう。

 

 次の日、取材の合間の時間調整が入ったとき、柏木は不意に崇に訊いてきた。

「昨日、電話していたよね。彼女?」

崇はドキッとした。

「はい、そうです」

「日本語が聞こえたけれど、相手は日本人なの?こっちに住んでいるの?」

崇は通訳で答えることは慣れていたが、自分が質問されるのは慣れていなかった。

「え、あの、日本人です。今、一時的にこっちに住んでいます」

言葉がしどろもどろになる。

「へー、やっぱりね。空港で会ったとき何か前と違うと思ったんだよね。興味湧くなぁ。クールなツォンを落としたのはどんな娘?写真とかないの?」

柏木は崇を質問攻めにした。そして日本での出会い、空港での再会からブレスレットの交換まで、すっかり訊きだしてしまった。いつも質問されているだけあって、質問の仕方が一枚上手だった。ただ、リサの体調に関しては「体調が悪い」とだけ言い、柏木もそれ以上は訊かなかった。

 

 その日の夜。夕食を取る予定のレストランに向かうとき、崇は柏木に呼ばれて同じ車で移動することになった。車が出発すると柏木は直ぐに切り出した。

「日曜日の最終日のコンサート、ツォンと彼女に席を確保してあるんだ。本当はサプライズにしようと思っていたんだけど、彼女の体調のことがあるから知らせておこうと思ってね。それに、もし大丈夫ならその後の打ち上げにも参加して欲しいと思っている。もちろん彼女の体調次第だけれど」

崇はリサの状況について簡単に説明した。自分が一緒にいれば新しい環境でも大丈夫だと思うが、ただ一人で移動が難しいので家族の了解が必要だと言った。すると、「リハーサルが終わったら、ツォンが迎えに行けばいいじゃん」と柏木は言った。

「そのくらい契約違反にならないだろ。それに何時間もかかるわけじゃないし。ツォンがいない間、俺はトイレにこもっていればいいわけ。トイレにいる間は、通訳は必要ないだろう」

そしてニヤッと笑った。

「その代わり、ちゃんと楽屋に連れてきて俺に紹介しろよ」

「わ、分かりました。ありがとうございます」

「それにしても、ツォンも言うよね。僕と一緒なら大丈夫、なんて映画の台詞じゃないと俺だって言えないよ」

崇はしどろもどろになり、耳まで真っ赤になってしまった。まさかあの一言をそんな風に取られるとは思ってもいなかった。柏木は、そんな崇を優しく見た。

「俺はツォンのこと、気に入ってる。仕事もそうだけど、一人の人間として好きだし信頼している。こっちに来てからずっと一緒にいるだろう。何か滅多に会えない弟と会ってるみたいな気がするんだよ。だから嬉しいよ。彼女と信頼しあえてるってこと」

崇は思わず言葉に詰まった。そして心から感謝した。通訳は形のない存在で、ほんの一時その人に寄り添って、風のように通り過ぎていく。そんな風に感じていた。いつもベストを尽くしているつもりだが、柏木のように一人の人間として見てくれる人は少ない。そんな仕事を選んだ自分は、どこかで人と深く関わるのを避けているのかもしれない。ガイを失ってから、親友と呼べる友人は一人もいなかった。

 

 崇は食事の合間に席を外して、リサに電話した。柏木がさり気なく崇を解放したのだ。

リサにコンサートのことを伝えると、とても喜んだ。柏木の歌も何曲か知っていると言った。崇が聞く限り、リサの声に不安は感じられない。やはり先日のことが功を奏しているのかもしれないと思った。

 席に戻るとき、柏木と目が合った。その目が「どうだった?」と訊いてきたので、崇は笑みを浮かべて小さく肯いた。椅子に座ると、柏木が耳打ちした。

「さっきの顔は、ちょっといやらしかったぞ。俺によからぬ妄想をさせそうな顔だった」

崇は笑った。

「変な話なんかしていませんよ。コンサートの件だけです」

「まあいいや。今度会ったときにじっくり観察するよ」

柏木は口の端で笑った。

 

 

 

 柏木は火曜日の昼過ぎに台湾に到着してから、ずっとスケジュールが埋まっていた。

木曜日はホールで打ち合わせと照明や機材の動作の確認が行われ、夕方から夜市の散策の撮影が入っていた。崇は連日の同行で少し疲れていた。日本語から中国語、中国語から日本語。日本語のニュアンスをできるだけ正確に伝えたいと思うが、反射的に訳す必要もある。集中力がないと続かない仕事だった。柏木は語彙も豊富なので、崇は時々、柏木に意味を確認してから訳すこともあった。それに比べ、柏木は疲れを全く見せない。

夜市に向かう途中で、崇は訊いてみた。

「柏木さんは疲れ知らずですね。次から次へと取材や撮影や打ち合わせが続いても元気なのは、何か秘訣があるんですか?」

「俺はミュージシャンだから歌ったり曲を作ったりするのは好きだけど、それと同じくらい人が好きでさ。コンサートに来てくれるファンの人達や、一緒に作り上げるスタッフ、取材で話す人、テレビ局の関係者、例えば、これから行く夜市で言葉を交わす人。そういう人たちと同じ時を過ごすっていうのがワクワクするんだよね。俺、今ワクワクしてるもん。どんな話が聞けるのかって。でも、ツォンは疲れるよな」

と言った。

「俺は、ツォンが俺の言葉をどんな風に訳してるのか分からないけど、でも相手の反応を見れば何となく分かるんだよね。だから信頼してるんだけどさ。通訳が意訳して俺の伝えたいことの意味が変わっちゃうことって結構あるんだ。それに気がつくのって後からでしょう。しょうがないから放っておくけど。だからツォンみたいに信頼できる通訳と巡り合うと、次からは指名させてもらうんだ。

俺は、今は人気があるからどこに行っても大切にしてもらっているけど、引退したらほとんどの人と縁が切れるだろうと思うわけ。だけど、ツォンとは繋がっている気がする。何だろうね。そんな気がするんだよ」

「僕は柏木さんのことを尊敬しています。相手の質問に真摯に答えようとする姿勢とか、スタッフに対する気配りとか。そういうことができる人ってなかなかいませんよね」

「いや、俺が気配りできるやつだったら、今のツォンには家に帰って寝ろって言ってるよ。でも俺は自分のワクワクのために、ツォンを引きずり回す。でも、ありがとう。今の言葉は嬉しかったよ」

 

 夜市の中を撮影の一団がゆっくりと移動していく。柏木はどの店にも興味を示し話しかける。予め買って食べる店は決まっていた。それを自然な流れに見せるセンスは、さすがとしか言いようがない。ところが、柏木はアクセサリーの店の前で立ち止まると、崇に言った。

「二人でブレスレットのプレゼント交換する?」

崇は仕事モードから、一気に素になった。

「いや、いいです」

眉間に皺を寄せ、首を横に振りながら言った。柏木はお腹を抱えて大笑いした。周りのスタッフは、柏木が突然大笑いしたので、驚いていた。

「さあ、先に行きますよ」

崇が柏木の袖を引っ張ると、「ちょっと見ていこうよ」と崇を引き戻した。

 店の半分は、台湾で多く産出される翡翠のブレスレットやネックレスなどが並んでいた。後の半分は水晶やさまざまな石を使ったアクセサリーが飾られていた。柏木は翡翠の説明を一通り聞いてから、他の石についても質問した。そしていきなり崇の腕を取り、このブレスレットに使われている石は何かと訊いた。崇が驚いていると「通訳は?」と目を輝かせた。店主は崇の腕のブレスレットをよく見てから「水晶と、青いのがアクアマリンですね」と答えた。それから「この組み合わせは人間関係の安定、特に恋愛関係の始まったばかりのときに効果がある」と言った。リサが自分のために無意識に選んだブレスレットは、まさに二人の関係にピッタリと合っているものだった。

「通訳は?」

再び柏木に催促され、崇は「水晶とアクアマリンだそうです」とだけ答えた。すると柏木は崇の顔をしげしげと眺めながら言った。

「その続きは?お店の人はもっと長く話していたはずだけど」

「この組み合わせは人間関係の安定にいいそうです」

崇は素っ気なく続けた。柏木は完全に崇の方に向くと、首を絞めた。

「ツォン、全部吐け。おまえは全てを言っていない!いいか、俺はしっかり見ていたんだぞ。おまえが真剣に話を聞きながら顔が少し赤くなったのを。さあ、吐け!」

柏木の手の力は結構強かった。崇はむせながら「分かりました、言います。言います」と叫んだ。柏木は満足そうに手を放した。

「これは水晶とアクアマリンの組み合わせで、人間関係の安定、特に恋愛関係の始まったばかりの時期に効果を発揮するそうです。これで全部です」

崇は半分自棄になって答えた。

「何だ、別に隠すほどのことじゃないじゃない。あ、そうか。それで彼女のことを思い出してエロい想像したのか」

崇はがっくりと肩を落とした。そして「エロい想像なんかしていません」と台湾語で呟いた。店主が笑っていた。

 

 撮影が一通り終わってカメラが外れると、柏木は崇に一歩近づいて小さな声で話しかけた。

「日曜日の夜、ホテルに一室用意した。休憩とかエロいこととか好きに使っていいから。俺からのプレゼントだ」

柏木はニヤッと笑った。

「柏木さん、あの・・・」

「冗談だよ。コンサートが終わってから打ち上げまで時間が空くから、その間彼女が気兼ねなく休めたほうがいいと思ったんだよ。俺からの感謝の気持ちっていうのは本当だからな」

「ありがとうございます」

柏木は崇の肩を叩いた。

「明日は一日リハーサルだ。途中で中継も入る。ツォン、頼むぜ」

「分かっています」

「今度さ、仕事で日本に来るときは俺に連絡くれよ。酒を飲みながらゆっくり話してみたいんだよね」

柏木から渡されたカードには、名前がなく、電話番号とメールアドレスだけが書かれていた。崇は急いで手帳にしまった。柏木は崇から離れると「どう?OKですか?」と撮影隊に声をかけた。

 

 

 

 

 

 リサは、柏木が二人のために部屋を用意してくれたことを、崇から聞いた。打ち上げが終わるのは相当遅い時間になる。リサの体調を気遣って、柏木が個人的に手配してくれたと言っていた。崇はそれ以上言わなかったが、言外に崇の思いは伝わってきていた。そしてリサも、心の中でそれを望んでいる。その気持ちに気づいたのは、あの駐車場でのキスのときだ。知り合ってからまだ日が浅いとか、そういうことは気にならなかった。

崇は「僕から聡子に説明しようか?」と言ったが、断った。

「私からきちんと話すから、大丈夫。これだって自立の一歩でしょう?」

リサがそう言うと、崇は笑った。

「僕はすっかり過保護になってしまった。僕こそ自立しないとね」

仕事の合間に話す崇の声は、楽しそうで穏やかだった。翻訳のときは、時間に追われているように切羽詰った感じの声だった。柏木との毎日が充実していることを、崇の声から感じた。そして崇と付き合っているというだけで、自分のことまで気を配ってくれる柏木に、リサは好意を抱いた。

日曜日は何かが大きく変化しそうな気がした。

 

 

 

 崇からは、5時には準備して待っていて欲しいと言われた。リサはあのワンピースを着ることにした。コンサートには不釣合いかもしれないが、柏木に感謝の意を表したかった。そしてホテルに泊まることを考えたら、小さなバッグ一個分の荷物が増えてしまった。それを聞いた崇は、ホールに行く前にホテルに寄って荷物を置いて行こうと言った。

 崇は5時5分に玄関のベルを鳴らした。落ち着いた気持ちで、リサは荷物を持ってドアを開けた。リサの後ろから聡子も来る。崇は聡子を見ると、軽く頭を下げた。

「楽しんでらっしゃいね」

聡子はリサに声をかけた。リサは「ありがとう。行ってきます」と明るく応えた。

 崇からホテルのことを聞いた後、リサは、そのことを何て聡子に言おうかと考えた。けれども、崇とのことで両親に嘘を言うのは嫌だった。リサは、崇から聞いたことをそのまま伝えた。何だかとても恥ずかしい気持ちだった。聡子は「リサが泊まりたいと思うなら、泊まればいいわ」と言った。聡子の言葉を聞いて、ホッとするより嬉しくなった。正直に伝えられた自分が嬉しかった。

 

 ホテルのフロントに荷物を預け、ホールに向かう。タクシーを降りると、崇はバックステージパスを2つ取り出し、リサの首にかけた。崇はいつもより急ぎ足で歩いた。雑然とした通路をくねくねと歩いて、一つのドアの前で止まった。「ここ」と崇が言った。

「開演まで1時間ぐらいだから、柏木さんに紹介した後、ちょっと話をして客席に行く感じ。安心して」

「分かった」

崇がリサの手をギュッと握った。それから部屋のドアをノックして「ツォンです」と言うとドアを開けた。

 崇に背中を押されて、部屋に一歩踏み込む。

楽屋の壁側には、化粧をするための鏡付きのスペースがずらっと並んでいて、花、化粧品、タオル、ドライヤーなど様々なものが雑然と置かれていた。ハンガーラックには服が何着もかけられていた。部屋の中央には応接セットがあり、そこには食べ物や飲み物があった。

ギターを抱えて座っていた柏木とマネージャーの田中がソファから立ち上がったので、二人は柏木の近くまで歩み寄った。柏木は真直ぐリサを見た。崇は二人にリサを紹介した。柏木は「よく来たね」と言って手を差し出した。リサも右手を差し出して握手をしてから、改めて深々と頭を下げた。

「いろいろとご配慮くださって、本当にありがとうございます。とても嬉しく思っています。今日のコンサート、思い切り楽しみたいです」

柏木はリサの言葉を聞いて優しく笑った。

「このコンサートがリサちゃんのいい刺激になるといいな。さあ、こちらへどうぞ」

柏木に促されてソファに腰を下ろしたリサは、少し興奮しているのか瞳がキラキラと輝いていた。三人は日本語で話し始めた。柏木の巧みな話術に、マネージャーの田中の息の合った合いの手が絡み、リサは笑いながら何の警戒心も見せず、次々と繰り出される質問に素直に答えていった。

ソファの傍らに立ったままで、崇はリサのことを見ていた。

白い肌が、今日はほんのりと赤みがさして、数日前のリサとは別人のように健康そうだった。そしてあのワンピースが、今日は特にリサの美しさを際立たせている。リサが手を動かすたびに、左手首のブレスレットが揺れていた。崇が一瞬で決めたブレスレットは、銀座の街角で一目で恋に落ちたときのリサと同じだと思った。「愛している」崇は心の中でリサに告げた。この言葉をいったいどれだけ言ったら、この想いを余すところなく伝えられるのか。言葉に拘るべきじゃないと言ったのは自分だ。けれど、行動だけではとても伝えきれない。「リー、愛している」この腕に抱きしめてリサに言いたい。今すぐ。

 

 「ツォン君。君がリサにメロメロなのは分かったが、ちょっと見とれすぎだよ」

崇は我に返った。三人の視線が自分に向かっている。

「あの、何か・・」

いったいどんな会話が交わされていたのか、それが全く分からず首を傾げた。

「そろそろコンサートモードにシフトするから、二人で客席に行ったらって言ったんだよ、まったく」

柏木は呆れ気味に立ち上がり、崇の肩を叩いた。

「コンサートの途中でツォンを呼び出すから、気を抜いてデレデレしてんなよ」

と笑いながら付け足した。

 

 楽屋を後にして関係者通路から客席に向かうとき、「途中で呼び出すって?」とリサが訊いた。

「コンサートの途中で、柏木さんが台湾のファンのみんなにメッセージを言うんだ。昨日は舞台の袖で待機していたんだけれど。今日は客席からだから、ちょっと緊張するかもしれない。柏木さんもコンサートの最初で言う挨拶は、中国語を覚えたんだよ。忙しい合間に、何度も僕に確認しながらね。やっぱり集中力が違うなと思った」

「私にしたら、瞬間的に日本語と中国語を使い分ける崇だって、凄い集中力の持ち主だと思うけど」

リサは笑った。

「ありがとう。今日は本当に元気そうで、僕は嬉しいよ」

「うん。あの後、2~3日熱が出て寝込んでいたんだけど、熱が下がったら身体が軽くなったみたい。歩いていてもフワフワした感じなの」

「熱があったんだ。電話では分からなかったよ」

「だって、電話が鳴った瞬間に気合入れてたもの。崇に心配かけたくなかったから」

崇は自分の経験で、精神的な治癒の後追いで、一時的に体調が崩れることを知っていた。崇のときは酷い吐き気だった。人によっては発疹やリサのように発熱という症状がでる。抱え込んでいた不要な感情をウイルスと見立てれば、至極当然の結果であって、過度に心配する必要はない。その証拠に、体調が戻ると、以前より「楽」という感覚になる。リサの場合は「フワフワ」ということだ。

 

 もう間もなく始まる。期待と興奮でホール全体がざわついている。柏木がどこから登場するのか、コンサートに集まった人々の視線があちらこちらに注がれていた。

柏木以外のメンバーがスタンバイすると、早くも悲鳴に似た歓声が上がった。

正面ステージの中央から客席の真ん中に向かって、幅2メートルの花道がある。その先には5メートル四方の中央ステージが設置されていて、その場所に、柏木はマイクスタンドとともにせりあがってきた。リサ達の席は、ちょうどこの中央ステージ横だった。客席から一斉に立ち上がる人々に釣られて、リサも崇も立ち上がった。スピーカーからバズーカ砲のように撃ちだされる音楽と、それに負けないくらいの歓声、身体でリズムを取る振動。それらが五感だけでなく、ありとあらゆるところから響いてくる。柏木から生み出される世界は、パワフルで、優しくて、ちょっと切ない。そしてなんて自由だ。自分の言葉を語るのに何の力みも衒いもない。リサはコンサートの間中、ずっと柏木を見ていた。全身で歌を楽しみ、言葉の奥に込められたものを読み取ろうとしていた。

 聞いていたのにも関わらず、柏木が崇の名前を呼んだときに、リサはとても驚いた。今まで別次元の中に迷い込んでいる気分だったのが、崇と柏木がステージに並んで立ったとき、一気に身近なものに感じられた。二人の姿を見つめながら、自分も勇気を出して一歩踏み出せば、柏木と同じように自由な自分になれるかもしれない。自由になりたい。以前、崇が教えてくれた「心の自立」というのは、この自由を手に入れることなのかもしれない。

 リサは一瞬柏木と目が合った。柏木が「それでいいんだよ」と肯いたように見えた。

 

 

 

 

 

 客席側の電気が点灯したのは、開演から3時間近く経ってからだった。崇には「打ち上げ会場にて会おう」と田中からメールが入っていた。それを確認してから、帰路につく人々の最後尾に繋がり、人の波にあわせてゆっくり歩いた。

 ホテルの部屋は最上階にあり、リサが化粧を直している間、崇は台北の街を見下ろしながら窓際を行ったり来たりしていた。ホテルに到着してから打ち上げ開始まで、それほど時間がないことがありがたかった。崇はこの部屋から一刻も早く出たかった。もしリサの身体に触れてしまったら、理性が吹っ飛んでしまいそうだからだ。「お待たせ」と言ってリサが無邪気な顔でバスルームから出てきたので、「人の気も知らないで」と中国語で悪態をついた。リサがチラッと崇を見て「悪口を言った?」と訊いたので、崇は首を横に振った。

 

 ホテルのレストランは、庭に面した一角が打ち上げ会場としてセッティングされていた。レストラン自体はすでにクローズしているので、一般客は入れない。二人は入り口で招待客名簿のチェックを受けた。今夜の打ち上げは、柏木のコンサートを台北で企画した会社の主催だった。崇の通訳の仕事も、正式にはこの会社からの依頼だった。この一週間でどれだけのお金が動いたのか想像もつかない。今夜のチケットの販売金額を考えても、一晩で億単位だ。穿った見方をすれば、この打ち上げの経費なんて微々たる金額だろう。

 柏木は少し遅れて登場した。シャワーを浴びたのだろう。テレビやステージのライトは思った以上に熱い。それだけでもじっとりと汗をかくけれど、さらに全身で歌うのだからあっという間に汗びっしょりだ。

 柏木が来たので、主催者が挨拶に立った。崇はリサに「しばらく待ってて」と言って演台の横に控えた。いつも通訳しているときは完全な仕事モードになる崇だったが、今日は、どうしてもリサが目の端に入るので、集中力が途切れがちになる。それを理性で何とか堪えている状態だ。主催者に続いて柏木が簡単に挨拶をした。乾杯が終わって解放されたと思ったら、主催者から呼び止められた。柏木との会話の通訳が必要だと言うのだ。柏木は崇を見て笑った。崇はリサの方を見てから踵を返した。

企画会社の社長は、柏木の音楽性や世界観について的外れな美辞麗句を並べた。崇は心の中で「何も分かっちゃいない」と毒づいたが、それをそのまま日本語に訳した。柏木もそれに対して心からの謝辞を言い、社長を喜ばせた。

そんなやり取りの中で、その社長は崇の家族について語りだした。崇は戸惑いながら言葉を選んだ。この社長は、料理研究家時代のメイリンと一緒に仕事をしたことがあるらしい。当然ながら、父親のことも知っていた。今まで相手に合わせて当たり障りのない言葉を交わしていた柏木が、興味津々の顔つきになった。

「柏木さん、彼のお母さんは老舗のレストランのお嬢さんで、とても美しくそして料理が非常に美味しいのです。以前は料理研究家として人気を博したものです。お父さんは日本人ですが、もうずっと台湾大学で教授をされているんです。一度、ご実家に伺ったことがあるんですよ。台北の高台に広い庭のある一軒家でした。日本では一戸建てはそう珍しくないかもしれませんが、台湾は狭い島ですからね。普通は集合住宅なんです。私が伺ったときは、崇君は中学生だったかな」

自分のことを通訳するというのは、何かとても気恥ずかしいものがあった。案の定、柏木は一言一句聞き漏らすまいと真剣に聞いている。

「ということは、彼は裕福な家の息子で、別に仕事をしなくても生きていける身分ということですか?」

柏木が訊いた。

「いや、あのご両親ならそんなことはさせないでしょう。きちんと自分で自活するように躾るでしょう。だから、ここに自分の特性を生かしている崇君がいるわけです」

二人の男が自分のことを話しているのに、それを通訳しているのがその本人という状況が、とても滑稽に思えた。そして、社長はこともあろうか、リサの方に手を差し伸べて、「あの女性は崇君が連れてきたと思いましたが、違いますか?」と言った。崇は仕方なく「はい」と答えた。すると柏木が「通訳して」と言ったので、社長の言葉を伝えた。柏木は笑いを堪えた顔をしてこう言った。

「僕も今日紹介してもらったんです。あそこのテーブルで飲みながら話しませんか。彼女も呼んで」

それを聞いて社長も喜んだ。

「それはいいですね」

崇はリサを迎えに行った。「もう終わったの?」と訊くリサに、「リーも一緒に話すことになった、ゴメンね」

 崇はリサを社長に紹介した。四人は椅子に腰を下ろした。ウェイターがビュッフェの料理を適当に盛り、テーブルに並べる。社長は二人の馴れ初めについて訊いてきた。リサに質問しているので通訳しないわけにもいかない。話が早く終わるように、リサの答えに崇が内容を追加して通訳した。話はリサの両親にまで及んだ。

「父はずっと中国語の研究をしていて、ここ数年は台湾大学にお世話になっています」

リサの言葉を聞いて、柏木がおやっという顔をした。リサは崇の父親のことを知らないのだ。社長も同じ反応をしたので、親同士の関係については崇が社長に説明をした。社長が驚いたのを見て、柏木は「通訳、よろしく」と言った。

「リサのお父さんを台湾大学に呼んだのは、僕の父です。二人は昔からの知り合いで、台湾語がだんだん廃れていくのを残念がって、中国語の研究をずっと続けている関根先生を呼び寄せたんです。僕は両親から紹介されたときにいろいろと話をしたので、知っていましたが、リサは日本で仕事をしていたので両親同士の関係は知らないんです。でも、両親のことと僕達のことは関係ないので」

崇は穏やかに話を終了させた。

社長は意を汲んだように、柏木に再度感謝の気持ちを伝え、最後に崇にこう言った。

「崇君の日本語通訳は非常に評価が高いので、これからも仕事を依頼したいと考えているのだよ。よろしく頼んだよ。ご両親にもよろしく伝えてください」

社長が席を外すと、リサがすかさず言った。

「崇のお父様が父を台湾に呼んだの?私ぜんぜん知らなかった」

「そう考えると、二人が両親と関係ないところでばったり出会ったなんて、不思議な巡り会わせだよね。こんなことがあるんだ」

柏木もしきりに感心していたけれど、スタッフを一回りしてくると言って席を立った。

 

 「お疲れ様」

リサが言った。

「自分に関する話を通訳するって変よね。気を使って疲れたでしょう」

「まあね。普通は聞いた内容をどれだけ正確に訳すかに気を使うけど、今は私情を挟まないように気を使った。リーは大丈夫?疲れてない?」

「ええ、大丈夫。今日のコンサート、来て良かった。私、柏木さんの歌を聞いていて凄いなぁって思ったの。彼を見るためにこれだけたくさんの人が集まる。それも高いお金を出して。自分の表現したいことに自由で、たくさんの人に受け入れられている、特別な人なんだと思ったの。でも、途中で崇がステージに上がったでしょう。それを見て、柏木さんも特別じゃないんだって思った。だって崇はこんなに私の身近な人でしょう。その崇が隣に立っているんだもの。とても身近に感じた。私も、自分の好きなことに一歩踏み出したら、柏木さんみたいに自由になれるかもしれない。そう思ったらドキドキした」

崇はドキッとした。

「リーが、一歩踏み出したい好きなことって、何?」

リサは夢を見るように顔を上げて微笑んだ。

「あのね、まだよく分からないの。でもお客様をもてなすのは、本当は好きかも。秘書の仕事していたとき、外国からお客様が来るときは何をしたら喜んでもらえるかなって、いろいろ考えて準備するのが大好きだった。それから茶道も好き。静かな空間で、お道具を扱う音が時々微かに聞こえるの。茶道をもう一度勉強したいな」

「ステキだね。焦る必要はないよ。ゆっくり見つければいい」

 

崇は田中に肩を叩かれた。

「ツォン、ちょっと通訳してもらいたいんだ。いいかな。リサさんも一緒にどうぞ」

二人は田中の後をついていった。演壇の前にマイクがセットされ、柏木がギターを爪弾いていた。

「ああ、ツォン。ありがとう。じゃあ始めよう」

柏木はおもむろにマイクを取った。

「え、ご参加の皆様に申し上げます。感謝の気持ちを込めまして、ミニミニライブを行います。食事をしながら、飲みながらお楽しみください」

崇の通訳を待って、曲を弾きだした。柏木の歌の中でも一番人気の高い曲だ。コンサートのときと違って、ギター一本で演奏される曲は、しっとりとしたまったく別の曲になったように感じられる。みんな静かに耳を傾けていた。

3曲目を歌う前に柏木はまたマイクを取った。

「早くも今日のラストの曲となりました。この曲は新曲でして、台湾でできました。とても気に入っています。聞いてください」

柏木の歌は、女性を思う男の気持ちを歌ったものだが、甘いメロディーのバラードに仕上がっている。崇は凄くいい曲だと思った。どんなアレンジになるのか分からないが、きっとヒットするだろうと思った。歌が終わると、会場から拍手が沸き起こった。

「ありがとうございます」

柏木が感謝を述べた。それから柏木は思いがけないことを言った。

「実は、この曲ができたいきさつがありまして。これから、ちょっとそのいきさつを話したいと思います」

柏木は崇を見た。

「台北に到着したそのときから、寝るとき以外ずーっと一緒にいた通訳のツォンのことは、皆さんご存知だと思います。その彼が恋をしていまして。取材や打ち合わせの合間に話を聞くわけですよ。まあ、俺が質問するんですが。その真直ぐなメロメロ振りを聞くにつけ、何となく歌詞やメロディーが浮かんできてました。ところがですね、今日、そのツォンをメロメロにした女性を紹介してもらって、話をしているうちに、一気に出来上がったんです。珍しく短時間でできた曲でした」

柏木はそこまで言うと、崇に「通訳しづらい?」と訊いた。日本人スタッフから笑いが起こった。「でもちゃんと中国語に訳せよ」と言って、崇が中国語で話し終わるのを待った。台湾のスタッフからは拍手が起こった。

「ということで、ミニミニライブは終わりですが、冗談抜きにして、ツォンにはこの一週間俺とまったく同じスケジュールで動いてもらいました。その完璧な通訳で助けてもらいました。彼とはこの打ち上げが最後で、少し寂しい気もしますが、しばらくはゆっくり休んで、さっきの新曲のように彼女と甘いメロディーを奏でていただきたいと思います」

崇がマイクを持って話し出そうとすると、日本人スタッフから拍手が上がった。崇は少し声が詰まった。今までで一番訳しづらい内容だった。

 

 

 

 

 

 一人で最上階の部屋に戻りながら、リサは柏木との別れの場面を思い出していた。柏木はリサをハグしながら耳元に囁いた。

「生きていればいろんなことがある。どん底もあれば最高の瞬間もある。大事なのは自分を見失わないことだよ。ツォン、いや崇は人として信頼できる素晴らしい男だ。そんな男に愛されているリサだからこそ、もっと自分に自信を持って欲しい。それから、愛されることに胡坐をかかないでほしい。リサはリサ自身の輝きで、崇が愛さずにはいられない女性でいてほしい。これが俺からの餞の言葉だ。ツォンにプライベートアドレスを渡してあるから、俺のアドバイスが必要になったら、そこに連絡しなよ」

 私自身の輝き。柏木の言葉の意味が、その奥に含まれている意味が掴みきれない。そんなもどかしさを感じた。焦っても仕方がない。焦っても深い意味が掴めるわけではないのだから。

 

 シャワーを浴び、バスローブを羽織った。部屋のライトは入り口とベッドサイドだけ灯してある。椅子に座って真夜中の夜景を眺めていると、だんだん瞼が重くなり、やがて意識がぼんやりとしていった。

 遠くでドアの鍵が開く音がした。崇だと思った。胸の奥から「ダメ、ここに来ちゃダメ」と声がする。この声は何だろう。その声には「恐怖、悲しみ、愛しさ」が絡み合っていた。

「早く逃げて」また声が聞こえた。自分は夢を見ているのかもしれないと思った。

 不意に肩を揺すられ「寝ちゃった?」という崇の声が聞こえた。リサは目を開けると崇を見た。そして微笑んで「少し夢を見てた」と言った。崇はリサを抱き上げた。シャワーを浴びたばかりの崇から、お湯の温かさがほんのりと伝わってきた。

 

 

 

 この手が、この唇が、リサに触れる全てが、激しく切ない感覚を呼び覚ます。コントロールを失った崇を、リサはまるで何もかも分かっているかのように受け入れ、身を委ねた。滅茶苦茶な激しさでリサを抱き、想いを遂げたとき、不意に涙が溢れ腹の奥から嗚咽がこみ上げてきた。訳も分からず泣いている崇に「ごめんなさい」とリサが言った。リサの腕に包まれたその温かさに、黒く強ばった悲しみの塊が少しずつ解れて、やがて消え去っていくのを感じた。

 崇は、隣で静かな寝息を立てているリサを見つめていた。崇の中に渦巻いていた激情は、今はもう跡形もなく、ただ穏やかな愛情が心を満たしていた。もう二度と、あの激しさでリサを抱くことはないだろう。あの慟哭は自分のものであって自分のものじゃない。何か大きな意味があるに違いない。それは突き止める必要があると、崇は思った。

 

 午前中の早いフライトで帰国する柏木に挨拶するために、崇はそっとベッドを抜け出した。柏木の部屋を訪ねると、柏木は崇を招きいれた。出国の準備はすっかり整えられている。

「いい顔してるじゃない。俺のプレゼントは功を奏したみたいだね」

「柏木さん。今回の仕事は、仕事だけじゃなく、本当に言葉にできないほどのものをいただきました。日本に行くときには必ず連絡します。ありがとうございました」

柏木は崇にハグすると「こっちこそ、ありがとう。たまには二人の写真を送れよ」と言った。崇は「必ず」と答えた。

「今度は、休暇にプライベートで来るから。そのときはツォンのお袋の料理をご馳走してくれよ。台北以外のところにも連れてって欲しいなぁ。じゃあ、また会おう」

崇は肯いた。

 

 部屋に戻ると、フロントに電話をしてレイトチェックアウトの依頼をした。時計を見るとまだ7時だ。リサは起きる気配がない。崇は、自分が感じたもう一人の自分に意識を向けた。

 とうとうリサを自分のものにした満足感と喜び。その反対に激しい後悔と悲しみ。この相反する感情が昨夜の崇を支配していた。到底、普通の恋愛関係の相手に抱く感情ではない。可能性があるのは、過去での出来事だ。輪廻転生については漠然と肯定しているが、今の人生に過去がかかわることまでは考えていなかった。

なぜあんなにもリサを渇望したのか。それはたぶん、リサを愛しながら想いを遂げられなかったからだろう。片思いだったのかもしれない。いや、そんな生易しい感情じゃない。後一歩で手に入りそうだったのに何かが原因で失敗した。激しい後悔と悲しみ。まだ弱い。

あのとき、リサは「ごめんなさい」と言った。何も知らないリサは、なぜ謝ったのか。自分にとってこれほどの感情を呼び起こす過去ならば、リサも何か感じていることがあるかもしれない。リサに訊くことでもっと詳しく分かる気がした。これから先は、リサが目を覚ましてからにしよう。崇は今という時間に、意識を戻した。

 

9時まで待ってリサを起こした。モーニングサービスがそろそろ来る。ドアベルが鳴ると、リサは慌ててバスルームに隠れた。

「リー、もう大丈夫だよ」

ウェイターが部屋を出たので、リサに声をかけた。リサは薄く化粧をして、髪を整えてから出てきた。「崇は着替えたのね」と言ったので、「柏木さんを見送ったんだ」と答えた。

崇が注文したのはアメリカンブレックファーストなので、テーブルの上一杯に食器が並んだ。起きてからすでに3時間以上経っている崇は食が進んだが、リサの方は水やジュースを飲みながら、まだ眠たそうにしていた。

「あのね。目が覚めてから右肩が痛いの。変な寝方をしたのかな」

崇は「肩のどこ?」と訊いた。リサは肩を回しながら言った。

「ちょうど肩甲骨の横の辺り。右腕もなんとなく痺れている気がするの」

「あとでマッサージしてあげるよ。さあ、温かいうちに食べよう」

 

食事をしながら、リサが何気なく話した夢の内容に、崇はハッとした。

「昨夜、崇が部屋に入ってきたとき、自分じゃない声がしたの。夢だと思うけど不思議だった。だって、その後崇が私を起こしたから、やっぱりあのとき崇が部屋に入ったんだと思うのよ。夢とリンクしているなと思った」

「そのときの声って、何て言ったの?」

「はっきり覚えている。『ダメ、ここに来ちゃダメ』って言って、その後『早く逃げて』って言っていた。そのとき、見つかったらどうしようとか、もう会えない、凄く愛しているって感情がごちゃごちゃしていた。でもとても焦っていて、ここから逃げて欲しいって強く思っていた」

リサの話と自分の感じたものが非常にマッチしていることに、崇は気がついた。でもまだピースは揃っていない。何か決定的なことがあるはずだ。それが分かれば、すべて終わらせることができる。リサは不思議な夢だと思っている。これは夢じゃない。二人の過去の感情が呼応して蘇っている。崇はそう確信した。崇はそのことをリサには話さず、リサがのんびり朝食を取っている姿を見ていた。

 

 食事が済んでから、リサが痛がっていた右肩をマッサージした。バスローブの下はまだ何も着けていないので、リサは見えないように慎重にローブをずらした。

崇が見る限り、痣もなく腫れてもいない。自分の行為が激しすぎたのかもしれないと思いながら、手のひらや指先で右肩全体を擦った。少し力を入れようとして、左手をリサの首の付け根に押し当てた瞬間だった。崇は思い出した。あの夜、何があったのか思い出した。あまりのショックに身体の力が抜けた。

 崇のマッサージが突然止まったので、リサは振り向いた。崇はうな垂れた格好で床に座り込んでいた。「どうしたの?」と訊いても、泣いているだけで返事もしない。

 

リサは慌てて崇を抱きしめて叫んだ。

「崇、どうしたの?何があったの?崇!」

「思い出したんだ・・・。昔、二人に何があったか」

「何があったの?」

「僕が、君を、殺した。僕が殺したんだ」

リサは抱きしめる腕に力を入れた。崇は泣きながら続けた。

「・・・リーが痛みを感じているちょうどこの右肩のあたり。僕は、後ろから剣を突き立てて殺したんだ。ゴメン。ゴメン、でもどうしようもなかった。僕は君を守りたかった。愛していたんだ」

リサは崇の背中を撫でた。

「分かっていた。私もあなたを愛していた。でも、私は人間としての人生を自分に禁じる誓いを立てていた。だからあなたを受け入れる訳にはいかなかった」

「誓いなんか破ればいいんだ!」

リサは、自分の口から言葉が勝手に溢れて、自分とは違う存在の感情が湧き上がってくるのを客観的に感じていた。今、自分も崇も過去の自分達に戻って会話をしている。きっと崇も分かっているはずだ。

「私は分かっていた。私が首領たちに利用されていること。その価値がなくなれば殺されること。それでも、私が神様の声を聞いていたことは、私にとっては事実で幸せな瞬間だった。だけどあなたを愛してしまった。神様にこの身を捧げる者でありながら、あなたを愛してしまった。だから、人としての愛を自分で封印したの」

「僕と一緒に逃げればよかったんだ。僕はそのつもりで、君を救い出すつもりで君の部屋に入ったんだから」

「逃げても、いずれ私は見つかって殺されるって知っていた。だからあなたに殺されたかった。あなたが私を殺すように仕向けたのは、私。ごめんなさい。私がそんなことをしたから、あなたに重荷を背負わせてしまった。本当にごめんなさい」

崇は顔を上げた。穏やかな顔つきだった。

「・・・もういいんだ。昨夜、僕は、僕の全てで君を愛することができた。そして今、君の気持ちも聞けた。満ち足りた気分だよ。君も僕に対する罪悪感は要らないよ。僕は本当に満たされているんだから」

「私も、あなたに全てを捧げて幸せだった。あなたに気持ちを伝えることもできた。あなたは許してくれた。ありがとう。もう思い残すことはないわ」

 

 二人はしばらくそのまま抱き合っていた。身体の中心から温かいものがどんどん広がっていった。

「リー、戻ってきた?」

「ええ」

それ以上話す必要はなかった。「よかった」という安堵感があった。

 

リサは立ち上がって、窓から空を見上げた。崇も隣に立ち、リサの肩に手をかけた。

「空が青いね」

崇が呟いた。本当に青い。どこまでも澄み渡っている。ああ、この感じ。自分を覆っていた幕が、また一つ取れたような開放感。心のどこかで「終わった」と感じた。

「リー、これからやっと僕達の恋が始まるね」

崇の優しい声が心地良い。リサは崇を見上げた。ああ、本当に崇は素晴らしい人。誰よりも愛しい人。リサは「愛しているわ」と言って崇にキスをした。でも、だからこそ言わなければ。二人の明るい未来のために。

 

「崇、始める前に、私はやらなくちゃならないことがある」

リサはそこで言葉を切って、崇を正面から見つめた

「私は、自分の足で立ちたい。崇が前に言ったように、心の自立をしたい。その準備が整ったような気がするの。

昨夜、柏木さんに言われた。私は私自身の輝きで、崇が愛さずにはいられない女性でいてほしい、って。昨夜はその意味が分からなかった。でも、今は分かる、柏木さんが何を言いたかったのか。

私は、近いうちに日本に帰るわ。崇に待っていて欲しいとは言わない。だって、崇が愛さずにはいられない女になるから。ちょっと怖いけど。でも、これが私の正直な気持ちなの」

崇はゆっくりと腕を回して、リサを抱きしめた

「君を愛しているよ。だから、リーが僕に話してくれたことが、とても嬉しい

崇の声が、少し悲しげにリサの心に響いた。

「崇・・・」

「リー、僕は信じていることがあるんだ。もし僕達の人生にお互いが必要ならば、きっとまた一緒に過ごす日がくる。本当に、僕はそう信じているんだよ

二人は最後のキスをした。

崇は二人で笑っている写真を撮った。

「柏木さんに報告しとくよ。それから彼から貰ったプライベートアドレスのカード。リサにも渡すように言われていたんだ。他人にばれないようにって伝言だよ」

リサはバッグからスマホを取り出すと、崇に差し出した。崇はリサの目を見て小さく肯いた。そしてにっこり笑って、受け取った。

 

 

 

 

 

 二人は、ホテルの入り口で別々のタクシーに乗って別れた。

 

 家に戻って聡子の顔を見た途端、リサは抱きついて泣いた。ただ泣きたかった。今までの自分に決別するための涙だった。

聡子が誤解しないように、リサは崇とのことを説明した。自分の力をもう一度試したいから崇から離れるのだと言うと、聡子は納得してくれた。

「二人とも勇気があるのね。分かっていても、なかなかできないことよ」

そう言って抱きしめてくれた。

 リサは、両親が揃ったところで自分の計画を話した。二人とも驚いていたが、同時にとても喜んでくれた。

 

 

 慌しく準備をして、リサは日本に帰国した。

1ヶ月以上閉め切っていた自宅に戻り、徹底的に掃除をして不要なものを処分した。スマホは初期化して、自分の必要なものだけ新たに登録した。アドレス帳には、両親と柏木の連絡先しか登録していない。自分の部屋も模様替えして、一番好きなインテリアに変えた。

 それが終わると、今度は茶道の稽古場を探し、中国語の語学学校を探した。中途半端な妥協はせず、自分が納得できるスクールを見つけた。そして最後に仕事を探した。過去の経験が役に立って、早々に派遣で秘書の仕事が決まった。

リサの毎日は、規則正しく過ぎていった。会社で定時まで仕事をし、週に2回は中国語のスクールに通う。学校のないときは自宅で勉強した。それから週末は茶道あてた。稽古だけでなく、お茶会の手伝いや勉強会にも参加した。

 

 帰国して早々に、柏木にメールをした。柏木からは直ぐに返事が来た。

「二人ともバカだ。しょうがない二人だでも仕方ない。CDが完成したらプレゼントするから、住所を教えてくれ」

リサは一番最近撮った写真を添付して、お礼の返信をした。柏木は、約束どおりCDにサインとメッセージを添えて送ってくれた。時々来る柏木と両親以外は、メールも電話もほとんどやり取りがなかった。

心の中の崇の笑顔は、いつもリサを励ました。不思議と、リサが勉強につまずく度に崇は夢に現れた。リサはその度に、空に向かって「ありがとう」と言った。

 

 

 春がすぎ、真夏の暑さを乗り越え、紅葉も終わり、街中にクリスマスソングが流れる頃、リサは留学の申請や手続きを代行する会社から、台湾大学の本科留学申請が受理されたと連絡が来た。少なくとも来年の2月から半年は台湾大学で勉強できる。この一年間、一つの目標として頑張ってきたことが、大学留学という現実を引き寄せた。

リサは嬉しくて、久しぶりに銀座をぶらぶらした。

暦が師走に替わったばかりの日曜の夕方、銀座は大勢の人で賑わっていた。一人で歩くのはリサぐらいだった。気がつくと、あのワンピースを見つけた店の前を歩いていた。今日は、黒のワンショルダーのパーティドレスが飾られている。もうあれから1年以上経ってしまった。クリスマスが終われば、このショーウィンドウも違うドレスが飾られるのだろう。どちらにしても、このドレスはリサの好みではなかった。

 

「リサ!」

リサはハッとして、声のする方へ振り向いた。危なく声を上げるところだった。それは柏木だった。大股で近づきながら、指を口に当てて、声を出すなというジェスチャーをした。

「驚いたな。こんなところで会うなんて」

「私も、びっくりしました。あ、CDありがとうございました」

それからショーウィンドウを指差して言った。

「柏木さん、ここの場所なんです。私と崇さんが出会ったの」

柏木はにっこり笑った。

「崇なら、そこにいるよ」

柏木が指差す方に、立ちすくんだままの崇がいた。

「今まで一緒だったんだよ。これからスタジオでライブの打ち合わせがあって、ちょうど別れるとこだったんだ」

柏木は、リサの肩に手を置いた。

「久しぶりだろう。崇に思いっきり甘えちゃえよ。じゃあ。リサ、またな」

 

 崇がゆっくり近づいてくる。リサは涙で崇の顔がよく見えなくなっていた。崇は何も言わずにリサを抱きしめた。この温かい腕を、自分はどうして拒否できたのだろう。

「愛している。リー、僕と結婚して。今すぐでなくてもいいから」

「崇。・・ありがとう、すごく嬉しい。あなたに会いたかった」

「このままタクシーに乗って、僕のホテルに行こう。話したいことがたくさんあるんだ。リーのメイクもきっと酷いことになっているし」

リサは崇の胸に顔を摺り寄せた。

「さあ、行こう。二人の新しい出会いを祝福するために」

 

 

 

 

 

 「リー、今日は茶道の日だよね。僕も今日は車で出かけるから、送って行くよ」

「ありがとう。今日は体験の人が二人来るの。こんなに早くお稽古する人が増えるとは思わなかった。お母様のおかげだわ」

「リー、君の実力だよ。お茶を点てているときの君は、特に美しい。みんなその姿に惹かれるんだよ」

崇はリサの頬にキスをした。

あの冬の再会からもう2年が過ぎていた。

 

 

二人が結婚したのは、リサが台湾に留学した年の春で、披露宴は秋だった。崇の両親の関係者が多いので、準備に時間がかかったのだ。柏木も日本から駆けつけ、一泊して帰っていった。

リサが柏木に送ったメールは、全て崇に転送していたと、柏木が打ち明けた。

「いざとなったら、リサの家に押しかけて、縄で縛って崇のところに送りつけようかと思ってた」

と、柏木は笑った。

リサの大学留学も、崇の父親から連絡が入っていたらしい。

「結局私は、また自分の気持ちを封印して、あなたを悲しませてしまったのね」

披露宴の後でリサが打ち明けると、崇は首を横に振って言った。

「それは違うよ。あのとき、僕もリーも自分のために別れる必要があった。君は自分の目標を見つけ、それを達成するために一歩ずつ努力をしていた。僕も同じだ。翻訳のしごとでも、自分が本当にやりたかったことを思い出した。生活のためにどんな翻訳でも受けてきたけれど、僕が最初にやりたかったのは、映画や小説の翻訳だった。そのことを思い出して自分の仕事をシフトするためには、やっぱり一人で立ち向かう必要があったんだ。僕は今、自分がやりたかった仕事をしている。リーの勇気のおかげだ」

そして、さらにこう続けた。

「僕達の人生にお互いが必要ならば、きっとまた一緒に過ごす日がくる。あのとき、僕はそう言ったね。柏木さんがリーのメールを転送してくれる度に、君が僕の人生に必要な人だと確信していたんだ。でもね、まさかあの場所で再会するとは、予想していなかった。僕はありとあらゆる、全てのものに感謝したよ」

「ありがとう。私も1年振りに崇を見たとき、自分がどれほど深くあなたを愛しているのか、やっと分かった」

純白のドレスに身を包んだリサを、崇は抱きしめた。

「崇、愛してる」

「僕も、愛しているよ。我最重要的人